〈28〉対決、グラシアーノ
ミカリはサンタローザがキュートピア先導師就任を祝して結びつけた婦人が住む一軒家を見つけた。そこは千葉県の南房総の高台に位置し、太平洋が一望出来る別荘地にあった。建物は洋館風で垣根が無く、広い庭には、花々が咲き誇っている。ミカリの視線の先に六十代の女性がいた。名前は、豊橋芳江。父は大手企業の下請けをしている新豊電機の創業者で、今はもう他界している。一人娘だったが芳江は、年頃の時、父の勧めで取引先の大手企業の担当者の息子とお見合いをした。芳江はそのお見合いに乗り気ではなかった。しかし、そんな芳江とお見合い相手を結びつけたのがサンタローザだった。サンタローザがキュートピアの先導師就任を祝して結びつけたのが、この二人なのだ。それは今からもう三十年以上も前のことだった。そして、キューピッドの金の矢の効力がほとんどなくなりつつある今、二人の間に、もう愛はなく、夫が外に若い女を囲っていることを芳江は知っていた。しかし、芳江は会社経営に興味がなく、その事で会社の社長をしている婿養子の夫と離婚するということも考えておらず、今は悠々自適に庭でガーデニングを楽しんでいた。
芳江は、日差しよけの麦わら帽子をかぶり、片手にスコップをもって、庭一面に咲いている花の手入れをしていた。ミカリは芳江の胸にサンタローザが撃った金の鏃を見つけた。しかし、放たれてから、もう時がたちすぎ、金の矢の効力は、無きに等しいといっていいだろう。そして、ミカリは思った。
〈これなら鏃を破壊するまでもない。単に女を落としてしまえばそれでいい〉
ミカリは庭先まで近寄ってから、芳江に声をかけた。
「綺麗なお花ですね」
芳江は顔を上げてミカリを見た。ミカリに声をかけられて、初めて庭先に人がいるのに気づいたのだ。ミカリは続けた。
「これ全部、あなたが咲かせたのですか?」
芳江は、見ず知らずの若い男性に声をかけられ、少し警戒しながら、「ええ」と答えた。
ミカリは芳江が警戒しているのを察して、ミカリは芳江の警戒心を解こうとにこやかに話した。
「スミマセン。突然。お忙しいのにお声をかけて。いえ、僕の両親が定年を向かえたもので、『都心から離れて静かに暮らしたい』っていうものですから、今、いい場所はないかって探しているところなんです。この辺はどうですか?なんかとても住みやすそうな気がするんですが・・・」
芳江は理由を知ったせいか、警戒心が解けた。芳江にはミカリが親孝行の息子に見えたのだ。そして、芳江は、にこやかな表情をしながらミカリに近づいてきた。そしてミカリに答えた。
「いいとこですよ、ここは。とってものどかで。でも、駅から少し遠いから、車か何かあると便利かな」
「車はもってます」
「なら、いいですよ」
「そうですね。綺麗な花も綺麗に咲くみたいですし」
そういってミカリは庭の花々に目を向けて、間接的に芳江を褒めた。
「あら、やだ」と言って、芳江は微笑んだ。
「でも、ここまで咲かせるには、いろいろ大変なんでしょ。母も花が好きだから、もしこちらに来た際は教えていただけませんか?どうしたらここまで綺麗に咲くのか?」
「ええ、喜んで」と、芳江は微笑んだ。
ミカリはそんな芳江の瞳を見ながら言った。
「ほんと、綺麗だ」
その言葉は花に向けていったのではない。芳江に向けて言ったのだった。そして、ミカリは芳江の瞳を見た。芳江もまた、ミカリの瞳から目が離せなくなった。まさにミカリが眼差しだけで女性を口説き落とそうとしている時だった。その邪魔をするかのように、一本の矢が光速の早さで芳江めがけて飛んできた。しかし、それをすんでの所でミカリがキャッチした。ミカリは眼差しで芳江を落とすのをやめた。そして、ミカリは矢が飛んできた方向を見上げた。芳江もつられてミカリの視線を追った。しかし、ただ空が見えるだけだった。そして、芳江はミカリが掴んでいる矢も見えない。これはキュートピアにいたものにしか分からない世界。
「なに?どうしたの?」
芳江はミカリに尋ねた。芳江に何も見えなくてもミカリには見えるのだ。上空にキューピッドのグラシアーノがいることを。そして、ミカリはグラシアーノを見ていた。
グラシアーノは自分の放った光速矢がミカリにキャッチされたことに驚いていた。
「あの野郎、俺の光速矢をつかみやがった」
グラシアーノの弓は通常のキューピッドが使う弓とは違い、グラシアーノ自ら弓をチューンナップしていた。そして、その弓から放たれる矢は光速の早さで飛ぶ。普通のキューピッドの矢はそんなに早くは飛ばず、目で矢を追うことが出来る。しかし、グラシアーノの弓から放たれる光速矢は目で追うことすら出来ない。そんなグラシアーノの光速矢をミカリは、芳江にささる前につかみ取ったのだ。それはグラシアーノにとっても初めての出来事だった。
「ただのまぐれだ!」
グラシアーノは再び弓に矢をセットして芳江めがけて光速矢を放った。しかし、またそれをミカリがつかみ取ってしまったのだ。どんなに鏃が凄くとも、当たらなければ意味がない。グラシアーノ自慢の光速矢もミカリにはきかなかった。グラシアーノは呆然としていた。そんなグラシアーノにミカリが言った。
「無駄だ、グラシアーノ。お前の矢は当たりはしない」
芳江はミカリが空に向かってしゃべっているので、空に何かあるのか、と思い目を細めて空を見ながら言った。
「どうしたの?誰かいるの?」
しかし、人間にはグラシアーノの姿は見えない。
グラシアーノは、三度、弓を構えた。
「こしゃくな!」
そういって光速矢を芳江に放った。しかし、またもミカリがつかみ取ってしまった。そして、ミカリが言った。
「そんなに当てたければ、お前が当たるんだな!」
そういって、ミカリはグラシアーノめがけて矢を投げた。すると矢は上空にいるグラシアーノに突き刺さった。グラシアーノはうめき声を上げて、地上に墜ちた。その際、グラシアーノはキューピッドとしてではなく、キューピッドが人間になりすました姿で墜ちた。グラシアーノは芳江が手入れをしている花畑に人間の姿で墜ちたのだった。そして、意識が朦朧としていた。芳江は人が突然、空から墜ちてきたのにビックリしていた。
「なに、今、空から人が墜ちてきたけど」
ミカリは芳江に微笑み、
「大丈夫、心配いりませんよ。僕の友達です」
そして、ミカリは俯せに倒れているグラシアーノに近づいた。そして、グラシアーノに跨りグラシアーノの髪をつかんで、顔を持ち上げた。そして、芳江に向かって言った。
「紹介しますよ。僕の親友のグラシアーノです。さぁ、グラシアーノ、目を覚ますんだ。そして、挨拶しろ、彼女に。彼女を見るんだ、グラシアーノ」
グラシアーノは意識が朦朧とする中、だんだんピントあっていき、そして、芳江を見た。はっきりと見てしまった。キューピッドの矢に射抜かれたものは、初めて見る人を愛する。グラシアーノは、自ら改造して作った呪いにでもかかったように人を愛し続ける鏃のついた矢を自ら受けてしまったのだ。グラシアーノは目の前にいる六十代の芳江に恋に落ちた。もう彼女しか見えない。グラシアーノは立ち上がり、芳江に駆け寄った。そして、熱く口説き始めた。
「おお、マダム。私はあなたのような人を待っていたんだ」
芳江は、突然、若い男に言い寄られて、戸惑っている。
「ちょ、ちょっと、なんですか、あなたは」
「ああ、そんな冷たい事を言わないでください、マダム。私はあなたのことが好きで好きで、たまらないのです。どうか私に、麗しい愛の言葉を、私にください」
「ちょっと、いい加減にしてください」
「いい加減だなんて。マダム、私は本気です。本気であなたを愛しているのです」
グラシアーノは芳江を抱きしめた。芳江はもがきながら、
「ちょっと、やめて!離して!」
「いいえ離しません!決して離しません!マダムに夫がいようと、そんなの私の愛には関係ありません。私はあなたが好きです。大好きです。心からマダムを愛してます。もうこのまま、ずっと抱きしめていたい。二度と離したくない」
グラシアーノは芳江を強く抱きしめた。芳江はグラシアーノの胸で首を動かし、もがいていた。それでもグラシアーノは芳江を抱きしめ続けた。ミカリはそんな二人をひと目見てから、その場から静かに消えるように立ち去った。
こうしてサンタローザが結びつけた熟年夫婦は、サンタローザの愛弟子グラシアーノの手によって、見事に破綻した。




