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第5章① 呼ばれる番号

研究所に連れてこられてから、数日が経った。


だがユウにとって、その時間はひどく曖昧だった。


窓のない施設では、朝も夜もはっきりしない。

時間の流れを知らせるのは、天井に設置されたスピーカーだけだった。


決まった時刻になると、無機質な電子音が鳴る。

それが、この場所でいう「朝」だった。


けれど、ユウの体はそれを朝だとは認めていなかった。

眠りは浅く、目覚めは重い。

腹が空く時間もずれていく。

頭の奥で、少しずつ感覚が壊されていくようだった。


朝になると食堂に集められ、決められた時間に食事を取る。


味のほとんどしない食事。


薄い皿に乗せられたそれは、一応食べ物の形をしている。

だが、口に入れても何も感じない。

塩気も、甘さも、温かさすら曖昧で、ただ喉の奥へ流し込んでいるだけだった。


食事の後は、訓練だった。


走らされる。

重りを持たされる。

反射テストを受ける。

反復。

反復。

ただひたすら、意味も説明もないまま繰り返される。


すべてが機械のように進んでいく。


スケジュールは一秒単位で管理されていた。

遅れれば怒鳴られる。

逆らえば連れていかれる。


そして何より不気味なのは――

誰も説明しないことだった。


ここが何なのか。

なぜ自分たちがここにいるのか。

何のために訓練を受けさせられているのか。


研究者たちは一切話さない。


ただ遠くから観察している。

ガラス越しに。

まるで動物園の檻の中の動物を見るような目で。


ユウは、その視線が嫌いだった。


人間を見る目ではない。

感情も共感もなく、ただ反応を記録するだけの目。

それは「監視」ではなく、「観察」だった。


(ここは施設じゃない)


食堂へ向かう廊下を歩きながら、ユウは何度もそう思った。


白い床。

白い壁。

規則正しく並ぶ照明。

どこにも無駄がない。


整いすぎている。


人が暮らすための場所ではなく、

何かを管理するためだけに作られた空間。


(檻だ)


その言葉が、ユウの胸の中で重たく沈む。


その日の朝。

いつものように食堂に集められていた。


薄い金属のテーブル。

無機質な白い壁。

消毒液の匂いがわずかに漂っている。

静かだった。


ここへ来たばかりの頃は、泣き声や怒鳴り声がそこら中で聞こえていた。

だが今は違う。


皆、学んでしまったのだ。

叫んでも変わらない。

怒っても意味がない。

ここでは感情すら、何も動かさない。


ソウタも、スプーンを持ったまま黙り込んでいた。

ナナは皿を見つめ、ほとんど食べていない。

レンは肘をついたまま険しい顔をしていた。

タケルは何かを考え込むように目を細め、アヤは周囲をさりげなく観察している。


その時だった。


突然、スピーカーが鳴った。


『被験者番号を呼びます』


食堂にいた子供たちが一斉に顔を上げた。


空気が張り詰める。


一瞬で分かった。


何かが始まる。


ユウたち六人も黙って聞いていた。


『被験者12』


一人の少年が肩を震わせた。


『被験者18』


『被験者23』


名前ではない。

番号だった。


呼ばれた子供たちは、軍服の男たちに連れられて出ていく。

誰も抵抗できない。


いや、しないのではない。

できないのだ。


それが、男たちの立ち方を見るだけで分かる。

隙がない。

逆らえばどうなるかも、もうこの数日で十分理解していた。


戻ってきた者は――

まだ一人もいない。


ソウタが小さく言った。


「なあ……」


声が震えていた。


「大丈夫だよな?」


誰も答えなかった。


答えを持っていないからだ。


レンが小さく舌打ちする。

ナナは唇を噛む。

タケルは視線を落とし、何かを計算するように沈黙した。

アヤだけが、静かな顔のまま、しかし目だけは鋭く周囲を見ていた。


その時。


スピーカーが再び鳴った。


『被験者31』


わずかな間。


そして――


『神城ユウ』


名前が呼ばれた瞬間、空気が固まった。


ソウタが勢いよく立ち上がる。


「ユウ、待てよ」


その声は小さいのに、はっきり震えていた。


レンが舌打ちする。


「クソ……なんでユウなんだよ」


「順番だろ」

タケルが低く言う。

「感情的になるな。見られてる」


レンは舌打ちしたまま視線を逸らさない。


ナナが言う。


「……絶対戻ってきなさいよ」


強気な口調だったが、その指先はわずかに震えていた。


その時。


アヤが立ち上がった。


小さな動きだった。


だが、今までずっと座っていた彼女が立ったことで、全員が一瞬そちらを見る。


アヤはユウの前まで歩いてくる。


無駄のない動き。


いつも通りの冷静な表情。


――のはずだった。


だが。


ほんのわずかに、目が揺れていた。


「ユウ」


名前を呼ぶ。


静かな声。


だが、いつもより少しだけ低かった。


アヤはユウの腕を軽く掴んだ。


強くではない。


止めるほどでもない。


ただ、触れるだけの力。


それでもユウは、その手をはっきりと感じた。


「無理しないで」


短い言葉。


それだけだった。


だが、その一言には、明らかに“観察者の言葉”ではないものが混ざっていた。


アヤは続ける。


「……帰ってきて」


一瞬、言葉を選ぶような間。


「ちゃんと」


その言い方は不器用だった。


いつものアヤなら、もっと理屈で話すはずなのに。


今は違う。


ユウは少しだけ目を見開いた。


アヤが視線を逸らす。


「……データ、必要だから」


小さく付け足す。


いつもの調子に戻そうとしているのが分かった。


だが遅かった。


もう伝わっている。


ユウは小さく息を吐いた。


「分かってる」


それだけ言う。


それ以上は言わなかった。


言えば、戻れなくなる気がしたから。


アヤの手が、ゆっくり離れる。


ほんの一瞬だけ、名残惜しそうに。


「……行って」


その声は、わずかに震えていた。


「大丈夫」


それだけ言った。


ユウは振り向かずに歩き出した。


逃げるつもりはなかった。

どうせ逃げられない。

この施設では、それくらいはもう理解していた。


本当に大丈夫なのか、自分でも分からなかった。

けれど、何も言わずに連れていかれるよりはましだった。

あれは仲間を安心させる言葉ではなく、むしろ自分に言い聞かせるための言葉だったのかもしれない。


軍服の男が近づき、ユウの腕を掴んだ。


「来い」


強い力だった。


子供の体では振りほどけないほど、簡単に。


ユウはそのまま研究所の奥へ連れていかれた。


白い廊下を歩かされながら、ユウは妙に冷静だった。

怖くないわけじゃない。

心臓は早く脈打っているし、喉も乾いている。


だがそれ以上に、頭の奥が妙に澄んでいた。


(何をされる)


(どこへ連れていかれる)


(戻れるのか)


答えはどれもない。


けれど、一つだけ確かなことがある。


ここで何かが起きる。


そしてそれは、自分たちが今まで見てきた「訓練」なんて生ぬるいものではない。


重たい扉の前で、男が立ち止まった。


冷たい金属の取っ手。

白い壁。

無機質な照明の光。


扉が開く。


ユウは、白い部屋の中へ連れていかれた。

ユウの姿が廊下の奥へ消えていった。


重たい扉が閉まる。


ガコン――


その音が、やけに大きく響いた。


誰も動かなかった。


まるで、その場に縫い付けられたように。


ソウタがぽつりと呟く。


「……なあ」


返事はない。


「戻ってくるよな?」


沈黙。


誰も、すぐには答えられなかった。


レンが舌打ちする。


「当たり前だろ」


短い言葉。


だが、その声にはいつもの勢いがなかった。


ナナが腕を組む。


「……帰ってくるに決まってる」


強く言う。


自分に言い聞かせるように。


タケルは静かに言った。


「連れていかれた場所……」

「おそらく実験区画だ」


ソウタの顔が青くなる。


「実験って……」


タケルは言葉を選ぶように、一瞬黙る。


「今まで戻ってきた人がいない理由と、繋がる」


その言葉で、空気がさらに重くなった。


ソウタが震える声で言う。


「じゃあユウも――」


「やめろ」


レンが遮った。


低い声だった。


「余計なこと言うな」


だが。


その言葉の方が、余計に現実を突きつけていた。


ナナが唇を噛む。


「……最悪」


その時。


静かに音がした。


カチッ。


アヤが手に持っていた小さな機械を操作していた。


全員がそちらを見る。


アヤは座ったまま、画面を見つめている。


表情はいつも通り。


落ち着いている。


冷静だった。


だが。


その指が、わずかに速かった。


普段よりも。


ほんの少しだけ。


「アヤ?」


ソウタが呼ぶ。


アヤは顔を上げない。


「……音、拾えないか試してる」


「音?」


タケルが反応する。


アヤは頷く。


「この施設、全部繋がってる」

「完全な遮断はしてないはず」


「つまり?」


「……ユウのいる部屋の音が拾えれば」

「何されてるか分かる」


その言い方は、いつも通りだった。


理屈。


分析。


感情のない説明。


だが。


その裏にあるものは、全員が気づいていた。


レンが言う。


「そんなことできんのかよ」


「分からない」


即答だった。


「でも、やる」


その言葉は短かった。


迷いがなかった。


ソウタが不安そうに言う。


「でもさ……」


「もし聞こえたら……」


言葉が続かない。


何が聞こえるか。


想像してしまったから。


アヤの指が止まる。


ほんの一瞬。


そしてまた動き出す。


「……それでも」


小さな声だった。


「知らないよりはいい」


ナナが目を細める。


「アンタ、怖くないの?」


アヤは答えなかった。


代わりに、画面を見つめたまま言う。


「怖いよ」


静かな声。


初めてだった。


アヤが、はっきりとそう言ったのは。


「でも」


一瞬、言葉が途切れる。


ほんのわずかに、息が揺れた。


「ユウが一人でいる方が、もっと嫌」


その言葉で、空気が変わった。


レンが何も言わなくなる。


ナナも視線を逸らす。


ソウタはただ黙る。


タケルだけが、小さく頷いた。


「……合理的だな」


だがその言葉は、いつものような分析ではなかった。


理解だった。


その時。


アヤの機械から、小さなノイズが走る。


――ザッ……


全員が息を止める。


アヤの指が止まった。


画面を見る。


そして。


ほんのわずかに。


眉が動いた。


「……拾えた」


その一言で。


全員の背筋に、冷たいものが走った。

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