近づいたほうが、楽になる
最初に壊れたのは、回線だった。
動画が止まる。
音声だけが残って、映像が固まる。
数秒後、音も消える。
私は無言で再読み込みを押した。
一回。
二回。
三回。
エラー。
「……やめて」
誰に向けた言葉かは、自分でも分からない。
回線か。
湖か。
それとも、ここに来た自分自身か。
スマホは繋がっている。
でも、通知が来ない。
いつもなら、どうでもいい更新や、どうでもいい話題が、
何かしら引っかかるはずなのに。
静かすぎる。
この静けさは、最初に来たときの「快適」とは違う。
音がないんじゃない。
削られている。
私は、イヤホンを外した。
意味はなかった。
森の音も、湖の音も、ほとんど聞こえない。
聞こえないのに、
「ある」感じだけが、はっきりしている。
カーテンの隙間から、湖が見えた。
夜のはずなのに、真っ暗じゃない。
月も星もないのに、水面だけが、薄く光っている。
呼ばれている、という感覚はなかった。
代わりに、
「行かない理由がない」
そう思ってしまうのが、一番怖かった。
会社を辞めた日のことを思い出す。
上司に呼ばれて、
小さな会議室に座って、
「無理しなくていいよ」と言われた。
その言葉が、
優しさなのか、
諦めなのか、
最後まで分からなかった。
湖も、同じだ。
来いとも言わない。
帰れとも言わない。
ただ、ずっとそこにある。
私は、上着を羽織った。
鍵はかけなかった。
戻らない可能性を、否定しなかった。
外は、思ったより寒くなかった。
湿った空気が、肌にまとわりつく。
砂利を踏む音が、
途中から、消えた。
足元を見ると、地面が濡れている。
湖から、少しずつ、水が広がってきているみたいだった。
「こんなの、聞いてない」
笑おうとしたけど、
喉が引きつった。
湖畔に立つ。
前よりも、ずっと近い。
もう、距離感をごまかせない。
水面を覗くと、
自分の顔が映った。
疲れていて、
目の下に影があって、
でも、表情は不思議と穏やかだった。
「大丈夫?」
誰かに言われた気がした。
声はない。
でも、意味だけが、直接届く。
私は、答えなかった。
答えなくても、いい気がした。
ここでは、
頑張らなくていい。
質問しなくていい。
理解しなくていい。
失敗しても、
「向いてないね」と言われない。
湖は、評価をしない。
その代わり、
戻る場所も、用意しない。
一歩、前に出る。
靴が、水に触れる。
冷たい、はずなのに、
嫌じゃない。
スマホが震えた。
久しぶりの通知。
『今どこ?』
ネットの知り合いだ。
珍しく、短い。
私は、画面を見つめた。
返信しようとして、
やめた。
文字にすると、
戻る理由ができてしまう。
湖の表面が、ゆっくり揺れる。
波紋が、円になって広がる。
まるで、
「そこまででいいよ」と言われているみたいだった。
私は、その場に立ち尽くした。
進むことも、
戻ることも、
どちらも、同じくらい重い。
静かな湖畔の森のおくで、
私の世界は、
ほとんど完成しかけていた。




