風天の猫
猫島創、専業イラストレーター。ハンドルネーム『風天の猫』。森崎さんとは小、中学校の同級生。同じクラスだったのは中学校の3年間。現在は小説の挿絵やゲームキャラクターのほか、テキストなどの表紙絵も担当している。
イラストから始まりイラストで終わる僕の一日は、それだけに傾倒していると運動不足になりがち。運動不足になると、良い創作が難しくなる。
だが僕は、長時間の歩行はあまり好きではない。目安は1日8千歩というが、買い物程度の外出ではせいぜい5千歩程度である。しかも恵まれたことに、自宅から半径2キロ内にスーパー、コンビニ、ドラッグストアが揃っている。おまけに郵便局やラーメン店、うどん店、回転寿司店、そしてビーチも。
日常で長く歩く用など、ほぼないのだ。
そこで思い立ったのが、水族館である。自宅から水族館までは約6キロ、徒歩60分といったところ。バスと電車で6百円以上支払っても40分かかるので、鉄道会社勤務の森崎さんには悪いが交通費を考えればコストパフォーマンスは高い。
ということで、水族館まで歩いてみた。ところどころ砂が堆積した海岸沿いのサイクリングロードを潮風に吹かれて歩きながら、徐々に大きくなってくる江ノ島を見つめるのも乙であった。
水族館ではシラスの水槽に惹かれ、人が来ては離れ、いなくなったらまた目の前へを繰り返す不審な挙動をしばらく続け、気が済んだところで別の展示へ移動。やがてイルカショーの観覧席に辿り着いた。
前方の席は人気なうえにイルカが着水した際の水飛沫がかかる。人の多いところが苦手な僕は、後方の端の席を選んだ。
ぼんやりしながらショーの開始を待っていると、そこに森崎さんと2名の連れが現れた。二人とも、とても綺麗な女性だ。
「前、失礼します」
ロングヘアの女性が僕に一礼した。僕は脚を椅子の下に引っ込めて彼女たちを通した。ショートヘアの明るそうな女性も「失礼します」と頭を垂れ、森崎さんは「ごめんね」と言って僕の隣に座った。「ごめんね」には一人で楽しんでいたところ悪いねの意味も込められているのだろう。
「いえいえ」
「どうもどうも」
ふわり、甘い香りがほのかに漂う。これはシャンプーやコンディショナーなどの香りらしい。ラクトンの匂いもまだ残っているだろうか。
人気のショーなので隣に誰か来る可能性はやや高いと思っていたが、彼女たちで良かった。騒がしい者、口臭の漂う者だったら最悪だ。僕も口臭には気をつけているが、どうだろうかと森崎さんに問いたいが、度胸がない。
華奢な彼女の腕が、互いの袖越しに触れる。
香りと相俟って鼓動が高鳴る。
ショーが、始まる。




