■ 女医?桜坂
「無理です」
桜坂は安西の腹からにじみ出る真っ赤な血を見て、バッグを胸の前で大事そうに抱えたまま小さくなって小声で言った。
「あんたが唯一の医者だよ。ヘリが飛んでったってことは、あたしの夫を追ったってことでしょ?ってことはこの船には何かが仕掛けられている。違う?」
野本は根上をちらりと見たが、根上の答えを聞く前に言葉を繋いだ。
「この状況だと救命ボートで脱出するってことだろうけどさ、岸に着くまでにトキはどうなるかなんて、これを見たらどんなに腐ってる医者のあんたでも簡単に分かるでしょ?」
「でも、私には・・・」
嫌みを言われていることに桜坂は気付いていない。
目の前には血まみれの、あのライブハウスで見たまんまに近いような格好で横たわる安西の姿だけが目に入っている。
しかし、手を差し伸べるわけにはいかなかった。
というより、彼女は・・・
「助けてよ!トキは唯一のあたしの身内なの!ダメ医者でも医者の端くれなら、なんとかできるでしょ!出血さえ止めてくれればそれでいいの!」
取り乱す野本は安西が本当に危ないということが分かっている。
「私は・・・」
「医者でしょ!」
「血が触れないんです!」
桜坂が言った一言に野本と根上の動きが止まる。
いや、その場の空気がぴたりと止まった。
今耳に入ってきた信じがたい言葉を頭の中で繰り返していた。
「「今なんて?」」
同じ言葉を桜坂に向けて放った。
「・・・血が・・・触れないんです。昔から。だから・・・」
「・・・本当にヤブ医者だったんだ。だから腐れ女医なんだよあんたは。ってか、どこのバカがあんたに医師免許出したの?何のために医者になった?人を助けるためじゃないの?」
「そうですけど・・・」
「いや、違うな。あんたはあれだ、一部の医者の二世三世のおバカがよくやるただの金儲けのために医者になったんだよ」
野本と桜坂の会話を遮ったのは、根上だ。
「そんな」桜坂が首を振りながら違う!と訴える。
「もういい!あたしがやる。それ貸して」
野本は煮え切らずに(腐っている)桜坂に見切りをつけ、大事そうに抱えているバッグを寄越せと手を伸ばした。
「でも・・・」
渋る桜坂を無視し、胸の抱えられているバッグを無理矢理ひったくると桜坂の肩から引き離し、中を開けた。
その中には一通りの医療道具が揃えられていた。
「なんでこんなのをヤブ医者のあんたが持ってるのか分からないけど、まぁいいわ」
野本はその中から必要なものを取り揃えると、安西を仰向けに寝かせた。
「ごめんねトキ、この船に乗ってた女医は、名医なんかじゃなかった。ただの金儲けが好きなヤブ医者だった」
桜坂に聞こえるように、桜坂の目をじっと見ながら嫌みを言うと、意識の無い安西に、
「もしかしたら助けられないかもしれない」
と弱気な事を言い、目元を拭った。
でも大丈夫、一応医学のことも人体解剖学のことも一通りのことは頭に入ってるから、そこから必要な知識を抜き出してやってみる。
と安西に話しかけ、側にいた根上は私は残りの男達をどうにかしてくるから、あんたは安西を助けることに専念して!なるべく早く戻る!と言うと、野本の肩を力強くぽんと叩き、未だ甲板で転げ回って恐怖に打ち勝とうと大声を上げている男二人の元へ走った。
桜坂は野本の手元をじっと捉え、血を見てぶっ倒れそうになり、気分が悪くなっている自分の目の前で、素人の野本が腕まくりをし、手を血まみれににして頭の中にあるマニュアルを頼りに安西を助けようとしている必死の姿を見ていた。
自分がなんともちっぽけな人間に見えた。
そして野本が言ったように、金が目当てで医者になったと言われても仕方がないという思いが自分にこみ上げてきているのをひしひしと感じられた。
『君は大丈夫だよ。ダメだって思うからダメなんだと思うよ』
桜坂の夫は血を見て震え出す桜坂に優しく声をかけた。
のは、医学部で行われる解剖実習での剖出のときのことだ。
桜坂含め、その班の学生は無駄口を叩くことなく皆押し黙ってやるべきことをこなしていたが、桜坂はもう限界だった。
自分の両親に兄弟が皆医者の道に進んだ医者家系の桜坂は、子供の頃からそういった教育を受けてきた。
当の本人にしてみれば、血が嫌いだし、内臓を見るなんて冗談じゃない!という心持ちだったわけだが、レールを敷かれた上を何の不自由無く進んできた桜坂に取って、そのレールからはみ出すという選択肢は恐怖でしかなかった。
『慣れる』という言葉を胸に、頑張ってきたが、何年経った今でも、決して慣れることはなかった。
そんな時に手を差し伸べたのが今の桜坂の旦那だった。
それ以来なにかと桜坂の力になり、支えてくれていた。
自分が医者としての素質が無いと周りのみんなに思われている時でも、また、自分自身でもそう感じ、どうしたらいいのか分からなくなっていた時にも、彼一人だけはずっと信じて見守ってくれていた。
それに甘えて今まで来てしまった。
『誰だって最初は出来ないから。僕だってそうだったよ』
にこやかに微笑む桜坂の夫は、無理強いをすることなく、おしりを叩くわけでもない。
桜坂は目の前で必死に命を繋ごうとしている野本の姿を見て、腹の底の方に熱いどろどろしてくるものを感じ始めた。
野本は無言だ。
自分の頭の中で頭の中にいる自分と対話でもしているのだろう。
いや、ここはこうするんじゃなかったか?とか、いや、違うか!とか、これは一体何?さっさと脳の引き出しから答えを持って来て!とでも言い合っているのだろうか。
汗ばむ額に手をやると、そこに血が付いたが、そんなことは気にも止めずに安西の腹に手を伸ばしている。
見るからに野本は桜坂を頼りにしていない。
信じられるのは自分の頭と安西の生命力だけだ。
根上がどこにいるのかと目で追うと、王と外国人の男とで何かを言い合っていた。
白戸と悟はどうやって救命ボートを海に降ろせばいいのかを、左右に行ったり来たりしながら大声で言い合ってその場所を見つけていた。
私ひとりだけ、何も出来ない。誰にも頼りにもされていないし、むしろ自ら何かをやろうともしていない。
みんな必死で自分の仕事をこなしているのに、私は・・・
桜坂は自分には何が出来るのか、ここで今必要なことはなんなのかを考えた。
野本がやっていることは、野本の仕事じゃない。
これは私がやらなければならないことだ。
野本は計算が出来るから、この船に残された時間だって、逃げる時間だって考えられるかも知れない。という思いがこみ上げてきた。
「トキ、頑張ってよ。あんたはこんなことで死んだりしないでしょ?死んだら、怒るよ!」 安西に向けて話しかけている言葉に少し震えがあるのは、涙をこらえているからかもしれない。
頬に伝わる涙を血の付いた手で拭う。頬に額に、顔中が血だらけになった。
「ううん、大丈夫、あたしは出来る。知識だけはあるけど、実際にオペみたいなことするのは初めてだから最初は出来ないと思うけど、頭の中にある教科書を引っ張り出していろいろ参照してやってくから、だからもうちょっと頑張って!助けるからね」
安西からの返事はもちろん無い。
「トキ!」
野本は安西の太もも辺りを叩く。
しかし、反応は無い。
両頬を手で覆う野本はもう涙を拭こうともしない。
「どいてください」
桜坂は野本が見せた涙を見て、腹の奥底に沸いてきた熱くどろどろしたものが体中に激しく回り始めた。
安西から離れない野本は桜坂の声なんて聞こえていない。
「どいて!」
桜坂は野本の肩を半ば強引に掴み、安西から引き離す。ついでに自分の持っていたバッグも奪い返した。
「私がやります」
桜坂は手際よくバッグの中から、自分の夫が使っていた、もしくは見慣れた医療器具を取り出すと、安西の血だらけの腹に目を向けた。
「血が何よ。冗談じゃない。私は医者よ。この私に出来ないことなんて無いんだから。誰だって最初はできない。でも私は・・・これが最初じゃない!」
桜坂は深呼吸を深くすると、血でべっとりと濡れた安西の腹に手を伸ばした。




