■ 野本嘉元
「俺だよ」
ヨーコの耳に届いたのは、懐かしい声。野本嘉元の声だ。
「教授・・・」
ヨーコは最愛の人からの電話に顔を若干ほころばせた。
しかし次に言われた言葉に、何が起こっているのか、どうなっているのかを把握するのに時間がかかることになる。
「悪いけど、君がしっかり分かるように説明している暇は無いし、その説明もする気は無い」
信じられない声が脳内に届き、ヨーコは無意識に野本を見た。
野本は、ほらね、と言うように肩をすぼめ首を横に倒した。
「君はこんな無駄口を叩いていないでさっさとそこにいる二人を仲間も始末すれば良かったね。ツグミの作戦にまんまとハマッてしまった」
「何を・・・」
「残念だよ。もう少し仕事が早いと思ってたんだけど、ミスばかりだ。君が選んできた中国人のその男たちも使えない。安西を半殺しにして新宿に捨てろと誰が言った?」
「それは」
「俺は、安西を殺してツグミに送りつけろと言ったはずだろ。そのまま二人を拉致しろと言わなかったか?」
声のトーンがワントーン低く、冷たいものに変わったのを聞き、ヨーコの頭のてっぺんから足先にまで恐怖が走り抜けた。
「ちゃんと後始末はして・・・」
「遅い。警察にも感づかれてしまった。しっかりと殺せば病院送りになることなんてなかった。私が予め指定してあった葬儀社へ連絡すればシナリオ通りに事は運んだんだよ。あのヘリもなんでさっさと始末しなかった」
「それはこれから」
「私は、私が考えたシナリオ通りに事を運べない無能な人間は切り捨てる。いらない存在だから。まぁ、君は完璧に作り上げたクローンじゃないから欠点だらけなのは百も承知だったけど。無能すぎるよ。君にはもう用事は無い。ツグミにかわってくれる?」
何も考えられないヨーコは携帯電話を耳に当てたままその場に呆然と立ち尽くすほかなかった。
「だから言ったでしょ?あたしたちはあいつのコマでしかないんだってば。分かった?」
野本の顔にはとてつもない悲しさが浮かび上がる。
それは今までベールに包んで見なかったことにしていた現実だが、知りたくなかった本当の情報が自分が思い描いた最悪のシナリオと一致し、今までの年月を思うと悲しくて、寂しくて、切なくて、やりきれない感情がこみ上げてきていた。
ヨーコは携帯電話を耳から離し、野本の方に雑に投げた。
野本はそれを拾うと画面を一度確認し、耳に当てた。
「久しぶりだね」
「何言ってんのよ。電話で話したばかりじゃない」
「こんなことになって残念だよ」
「あんたが勝手に残念な方向に仕向けたんじゃないのよ。バカじゃないの」
「さすがだね。恐怖は感じない?」
「なんでこんなことすんのよ」
「実はね、いろいろとやっかいな問題が持ち上がってきてね、新しい実験が出来ることになったんだけど、その条件が今までの創作物とオリジナルの君とを処分しないとならないということになってしまってね」
「だから、半年後に返るとか嘘みたいなこと言ってごまかしてたのね」
「いや、それは嘘じゃない。俺の性格を知ってるだろう?」
「あんたはあたしをモノ扱いしたってわけね?」
「俺の研究には納得してくれてたじゃないか」
「あたしを騙すまでわね」
「それは・・・言葉のあやだ。・・・怖くない?」
「あんたと私は利害関係でしか結ばれてなくて、ほんとよかったと思うわ」
「俺は本当に愛してたよ。心の底から」
「あたしの頭をでしょ」
「全部を。君にも愛して欲しかった」
「・・・・・・たぶん愛してたよ」
下を向いて話す野本の肩は硬く力が入っていた。しかしその表情は読み取れない。
「安西は私が作ったものだから廃棄するのも私の自由だ。でも君は、殺すのはもったいないと思ってる。どう、交渉に乗ってみない?」
「・・・あたしがあんたのくだらない話に乗るなんて、そんな簡単な女じゃないってことを知らなかったのなら、相当頭悪いわよ」
「最後まで気が強いね。でも、それでいいよ」
「タヌキ!聞いてたでしょ。あたしとトキは今からこいつに、あたしの夫に殺されるってわけよ」
携帯を耳から離し、野本が大きな声でまくし立てたのを聞き、電話の向こうではタヌキとは一体なんだと考える時間が出来、船の上でも、ヨーコに転がされた男二人も、タヌキ?と一瞬考える間があいた。
「・・・あぁ、聞いた」
低く唸るような、機嫌のすこぶる悪そうな声が野本の耳に付けられていた小型のイヤホンから届いた。
「じゃ、・・・助けてよ」
恐怖を隠すように絞り出した声は、田ノ木と幸元と幸元旦那にしか聞こえない。
絶対に弱みを見せない野本が人に助けを求めるなんてことは、本当に自分ではなんともできないと分かりきったときのことだ。
見えない嘉元の恐怖は野本の身体に針のように突き刺さり、孤独と不安にさせる。
自分よりも怖いと思っている人物は只一人、それは自分の夫に他ならない。
彼はやると言ったことは確実にやり遂げる。
地獄の底まで追いかけていって、自分の目でその相手の息の根が止まったことを確認する徹底した黒い仕事振りをずっと側で見てきているからこそ分かることだ。
「・・・わかったよ」
ぶっきらぼうに言った田ノ木の一言に、野本は携帯を耳に戻す。
「警察かな?」
察しの良い嘉元は野本が電話に耳を当てた途端に声を発した。
「あたしが警察を相手にすると思うわけ?」
「君のそういうところが好きだった」
「あたしも、あんたのそういうところが嫌いだった」
「何か言うことはある?」
「あんたもヨーコもぶっ飛ばす」
野本は自分の言いたいことだけを言うと、電話を海に投げ捨てた。