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第9話 元夫の絶望

第9話 元夫の絶望


 王都アルシュタインの王宮は、朝の陽光を浴びて白く輝いていた。


 巨大な噴水から透明な水が流れ落ち、磨き上げられた石畳には色鮮やかな花びらが舞っている。甘い焼き菓子の香りを乗せた春風が吹き抜け、人々の笑い声が広場へ広がっていた。


 その光景を、グレイグは王宮門前から呆然と見上げていた。


 ぼろぼろだった。


 薄汚れた外套。

 泥で変色した靴。

 痩せ細った頬。


 かつて辺境伯だった男の姿は、もはやどこにもない。


 王宮前を通る貴族たちは、露骨に顔をしかめて距離を取っていく。


「なんだあの男」


「浮浪者か?」


「臭うぞ……」


 グレイグは俯いた。


 確かに臭う。


 湿った宿屋の藁。

 泥。

 汗。

 安酒。


 以前の自分なら、こんな男を視界へ入れることすら嫌がっただろう。


 だが今、自分がその“汚らしい男”だった。


「……エルザ」


 掠れた声が漏れる。


 会いたかった。


 謝りたかった。


 許されたいなど、もう思っていない。


 ただ一度だけ。


 あの日、自分がどれほど愚かだったか伝えたかった。


 その時だった。


 王宮正門が静かに開く。


 周囲の空気が変わった。


 衛兵たちが一斉に頭を下げる。


 貴族たちが道を開ける。


 そして。


 グレイグは息を呑んだ。


 そこに現れたのは、一人の女性だった。


 淡い蒼銀色のドレス。


 朝露を閉じ込めたような絹布が、陽光を受けて柔らかく輝いている。胸元には繊細な銀刺繍。腰には細い白金の帯。揺れる金髪は美しく結い上げられ、真珠の髪飾りが静かに光っていた。


 背筋は真っ直ぐで、歩く姿には気品がある。


 だが何より。


 その表情だった。


 穏やかで。

 落ち着いていて。

 もう怯えていない。


 かつて冷えた執務室で疲れ果てていた女とは、まるで別人だった。


 周囲の人々が次々と声を掛ける。


「エルザ様、おはようございます!」


「北部改革、大成功だったそうですね!」


「殿下も大変お喜びでした」


 誰もが彼女を敬っていた。


 必要としていた。


 感謝していた。


 グレイグの喉が震える。


 ああ。


 これが本来の彼女だったのか。


 自分は、どれほどの人間を踏みつけていたのか。


「……エルザ」


 思わず足が動いた。


 衛兵が止める間もなく、グレイグは彼女へ駆け寄る。


「エルザ!!」


 広場の空気が張り詰めた。


 エルザが足を止める。


 ゆっくり振り返ったその瞳が、グレイグを映した。


 一瞬だけ沈黙が落ちる。


 グレイグは震える声で言った。


「悪かった……!」


 膝をつく。


 石畳へ額がぶつかるほど深く頭を下げた。


「俺が間違っていた!」


「全部、お前のおかげだったんだ……!」


 喉が詰まる。


 涙が落ちる。


「俺は何も知らなかった……!」


「お前がどれだけ苦労してたかも……!」


「どれだけ支えてくれてたかも……!」


 周囲がざわめく。


 だがグレイグにはもうどうでもよかった。


「頼む……!」


「戻ってきてくれ……!」


「もう一度だけやり直したいんだ……!」


 みっともないほど縋りつく。


 かつて誇り高かった辺境伯の姿など、そこには欠片もなかった。


 エルザは静かに彼を見下ろしていた。


 その瞳は、驚くほど冷静だった。


 怒りも。

 憎しみも。

 未練もない。


 ただ、遠い。


 まるで過去を見るような目だった。


「グレイグ様」


 穏やかな声だった。


 けれど、その響きはどこまでも冷たい。


「私はもう、あなたの“居候”ではありません」


 グレイグの肩が震える。


 あの日、自分が吐き捨てた言葉。


 それを今、返されている。


「違う……!」


「俺は……!」


 言葉が続かない。


 エルザは静かに続けた。


「それに――」


 春風が吹く。


 金色の髪が揺れる。


 そして彼女は、ほんの少しだけ首を傾げた。


「あなたの領地、もうありませんよね?」


 世界が止まった気がした。


 グレイグの顔から血の気が引く。


 反論できない。


 何一つ。


 自分はすべて失った。


 爵位も。

 財産も。

 領地も。

 誇りも。


 そして何より。


 一番大切だった人を。


 完全な敗北だった。


 その時。


 低い声が響く。


「……随分と騒がしいな」


 空気が変わった。


 周囲の貴族たちが一斉に頭を下げる。


「ルファード殿下!」


 漆黒の軍服を纏ったルファードが現れる。


 銀髪が朝日に煌めき、その灰青色の瞳は氷のように冷えていた。


 彼は真っ直ぐグレイグを見下ろす。


「我が国の宝に触れるな」


 その一言だけで、衛兵たちが動いた。


「立て」


「離せ……!」


 グレイグは腕を掴まれる。


「俺はまだエルザに……!」


「黙れ」


 衛兵の声は容赦がない。


 グレイグは引きずられながら必死に振り返った。


「エルザ!!」


「頼む!!」


「俺を置いていかないでくれ!!」


 だが。


 エルザはもう振り返らなかった。


 ルファードが自然な動作で彼女の肩へ外套を掛ける。


「冷える」


「……ありがとうございます」


 二人は並んで歩き出す。


 その姿は、美しかった。


 対等で。

 穏やかで。

 互いを尊重している。


 グレイグは泥だらけのまま、その背中を見つめることしか出来なかった。


 もう届かない。


 二度と。


 春の陽光は暖かいはずなのに、グレイグの身体だけが、凍えるほど寒かった。



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