第10話 一億ゴールドのその先
第10話 一億ゴールドのその先
アルシュタイン王国は、かつてない繁栄を迎えていた。
王都中央通りには色鮮やかな花が咲き誇り、磨き抜かれた石畳には旅商人たちの馬車が絶え間なく行き交っている。露店には新鮮な果物や香辛料が並び、焼き立てのバター菓子の甘い匂いが風に乗って広場へ広がっていた。
「見て、また新しい劇場が出来たんですって!」
「北部街道も全部整備されたらしいぞ!」
「税率改革のおかげで商売が本当に楽になったよ!」
人々の顔には笑顔がある。
飢えも。
怯えも。
絶望もない。
その中心にいるのが、皇太子妃エルザだった。
王宮のバルコニーから街を見下ろしながら、エルザは静かに目を細める。
春の風が、柔らかな金髪を揺らした。
今の彼女が纏っているのは、白銀色のドレスだった。胸元には繊細な金刺繍が施され、薄絹の裾には小さな真珠が散りばめられている。
だが、その美しさ以上に人々を惹きつけるのは、彼女の表情だった。
穏やかで。
落ち着いていて。
幸福そうだった。
かつて冷たい執務室で疲れ切っていた面影は、もうない。
「エルザ様!」
侍女が駆け寄ってくる。
「本日の結婚式の準備が整いました!」
「ありがとう」
エルザは微笑んだ。
その笑顔に、侍女は思わず頬を赤らめる。
「本当にお綺麗です……!」
「皆、今日を心待ちにしておりました」
王都中が祝祭だった。
街路には花飾りが並び、窓辺には白布が掛けられている。楽団の演奏が遠くから聞こえ、広場では子供たちが祝福の歌を歌っていた。
今日は、皇太子ルファードとエルザの結婚式。
王国中が待ち望んだ日だった。
大聖堂へ向かう廊下を歩きながら、エルザはふと窓の外を見る。
遠くに見える街並みは、眩しいほど豊かだった。
あの日、自分が離婚を告げた時には想像も出来なかった未来。
けれど、それを作ったのは他でもない自分自身だった。
努力して。
学んで。
耐えて。
ようやく掴み取った人生だ。
「緊張しているか?」
低い声に振り返る。
ルファードが立っていた。
漆黒の礼装は完璧に仕立てられており、銀刺繍の入った外套が陽光を受けて輝いている。その姿は相変わらず隙がない。
だが、エルザを見る瞳だけは柔らかかった。
「少しだけ」
エルザが正直に答えると、ルファードは小さく笑った。
「珍しいな」
「こんな大勢に見られる経験、ありませんでしたから」
「なら安心しろ」
彼は自然な動作でエルザの手を取る。
「今日ここにいる者たちは、皆君を祝福している」
その温かさに、エルザは少しだけ目を伏せた。
昔なら考えられなかった。
誰かと並んで歩くことが、怖くない。
誰かへ頼ることが、苦しくない。
大聖堂へ入ると、眩しい光が降り注いだ。
巨大なステンドグラス。
純白の花々。
高く響く聖歌隊の歌声。
参列した貴族たちが、一斉に立ち上がる。
「皇太子妃殿下に祝福を!」
「エルザ様、おめでとうございます!」
拍手が響く。
その中には、かつて辺境伯領から移住してきた者たちの姿もあった。
彼らは皆、涙ぐんでいた。
「あの時、助けてくださったのはエルザ様だった……」
「私たちはようやく気付いたんだ……」
だが、もう過去へ戻ることは出来ない。
辺境伯領はすでに消えた。
グレイグは鉱山送りとなり、ミリアも罪人として遠方へ送られたと聞いている。
エルザはもう振り返らなかった。
式が終わり、夜。
王宮の大広間では盛大な祝宴が開かれていた。
黄金色の灯り。
楽団の演奏。
香ばしいロースト肉の匂い。
テーブルには豪華な料理が並んでいる。
海老の香草焼き。
濃厚な茸のポタージュ。
果実を煮詰めた赤ワインソースの鴨肉。
蜂蜜と木苺のケーキ。
けれどエルザの胸を満たしていたのは、料理ではなかった。
笑い声だった。
温かな視線だった。
誰かと食卓を囲む幸せだった。
ルファードがグラスを傾けながら微笑む。
「そういえば」
「はい?」
「一億ゴールドの使い道は決まった?」
一瞬、エルザは目を丸くした。
そして、ふっと笑う。
昔のような諦めた笑みではない。
心から自然に零れる笑顔だった。
「今度は――」
エルザはゆっくりルファードを見つめる。
「私を大切にしてくれる人のために使います」
ルファードの瞳が柔らかく細められる。
「なら、その使い道は正しいな」
「ふふ……」
その時だった。
王都中へ、祝福の鐘が鳴り響く。
ごぉん、と澄んだ音色が夜空へ広がっていく。
人々が笑う。
歌う。
祝福する。
誰もエルザを“金の亡者”とは呼ばない。
誰も彼女を“居候”とは言わない。
彼女の努力を知っている。
価値を知っている。
必要としている。
だからもう、かつて彼女を捨てた者たちの声は届かない。
二度と。
エルザは窓の外を見上げた。
夜空には無数の星が瞬いている。
あの日、冷たい執務室で一人帳簿を抱えていた少女は、もういない。
ここにいるのは、自分の価値を取り戻した一人の女性だった。
ルファードがそっと彼女の肩を抱く。
「幸せか?」
エルザは迷わなかった。
「はい」
その答えだけで十分だった。
こうしてエルザは、ようやく本当の人生を手に入れたのである。




