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エピローグ 春を知った女

エピローグ 春を知った女


 春の朝だった。


 アルシュタイン王国の王都には、柔らかな陽光が降り注いでいる。窓を開ければ、花市場から甘い香りが流れ込み、遠くでは鐘の音が穏やかに響いていた。


 皇太子妃エルザは、王宮のテラスで紅茶を飲んでいた。


 白磁のティーカップからは、温かな湯気が立ち昇っている。蜂蜜を少し垂らした琥珀色の紅茶は、優しく甘い香りがした。


 テーブルの上には焼き立てのクロワッサン。苺のジャム。薄く切った生ハムと卵料理。


 どれも温かい。


 エルザはふと、そのことに胸がじんわり熱くなるのを感じた。


 昔は、冷えた食事ばかりだった。


 冷めたスープ。

 硬い黒パン。

 急いで流し込むだけの朝食。


 食べることは生きるための義務でしかなかった。


 けれど今は違う。


「また考え事か」


 低い声がした。


 振り返ると、ルファードがテラスへ出てくるところだった。


 休日らしく、今日は軍服ではなく濃紺の軽装を纏っている。金糸の刺繍が施された上着は上質だが、堅苦しさはない。


 彼は自然な動作でエルザの隣へ腰掛けた。


「朝から執務室へ行こうとしていただろう」


「少しだけ確認したい書類が……」


「駄目だ」


 即答だった。


 エルザが思わず瞬きをする。


 ルファードは呆れたように息を吐いた。


「今日は休みだ」


「ですが北部交易の――」


「副官へ任せろ」


「でも」


「エルザ」


 名前を呼ばれる。


 優しい声だった。


「君はもう、一人で全部背負わなくていい」


 その言葉に、エルザは小さく黙り込んだ。


 まだ時々、怖くなる。


 自分が止まれば、すべて壊れるのではないかと。


 昔は本当にそうだった。


 誰も支えてくれなかったから。


 だから、休み方を知らない。


 ルファードはそんな彼女を見つめ、小さく笑った。


「……少し散歩でもするか?」


「散歩?」


「市場へ行こう」


 数刻後。


 二人は護衛を最低限だけ連れ、王都の中央市場へ来ていた。


 春の市場は活気に満ちている。


「いらっしゃい!」


「今日の果物は甘いよ!」


「焼き立てのアップルパイはいかがですか!」


 人々の笑顔。


 漂う香辛料の匂い。


 鉄鍋で焼かれる肉の香ばしい香り。


 エルザは目を細めた。


 辺境伯領の市場とは違う。


 ここには怯えがない。


 飢えがない。


 そして人々は、エルザを見ると嬉しそうに頭を下げる。


「エルザ様!」


「先日の税制改革、本当に助かりました!」


「おかげで店を広げられたんです!」


 果物屋の女主人が、真っ赤な苺を差し出してくる。


「どうぞ、一番甘いやつです!」


「え、でも」


「お礼です!」


 エルザが戸惑っていると、ルファードがくすりと笑った。


「受け取ってやれ」


 エルザは小さく頭を下げる。


「……ありがとうございます」


 苺を一口齧る。


 甘かった。


 果汁が口いっぱいに広がる。


 その瞬間、なぜだか少し泣きそうになる。


 昔、自分へ向けられる言葉は罵倒ばかりだった。


 金の亡者。

 冷たい女。

 愛されない妻。


 けれど今は違う。


 努力を知ってくれる人がいる。

 感謝してくれる人がいる。


 それがこんなにも温かいことだったなんて、昔の自分は知らなかった。


「エルザ様!」


 不意に、小さな男の子が駆け寄ってくる。


 まだ七、八歳ほどだろうか。


 頬を赤くした少年は、ぎこちなく花束を差し出した。


「これ、母ちゃんと作ったんだ!」


 野花を束ねた、小さな花束だった。


 決して高価ではない。


 けれど丁寧に編まれている。


 エルザはゆっくり受け取った。


「……ありがとう」


「エルザ様、すごいんだって父ちゃんが言ってた!」


「皆を助けてるって!」


 無邪気な笑顔だった。


 その瞬間。


 エルザの胸の奥で、何かが静かにほどけた。


 ああ。


 自分はもう、誰かの“都合のいい財布”じゃない。


 ただ搾り取られるための存在じゃない。


 ちゃんと、生きていいのだ。


 ルファードがそっと彼女の肩へ手を置く。


「どうした」


「……いえ」


 エルザは笑った。


 心から。


「少し、幸せだなと思って」


 ルファードの表情が柔らかくなる。


「少しか?」


「ふふ……とても、です」


 その時、春風が吹き抜けた。


 花びらが舞う。


 市場の笑い声が広がる。


 エルザは空を見上げた。


 青く澄んだ空だった。


 思えば、昔の自分はずっと冬の中にいた。


 冷たい部屋。

 冷たい言葉。

 冷たい視線。


 けれど今、ようやく春を知った。


 隣には、自分を尊重してくれる人がいる。


 努力を認めてくれる人がいる。


 そして、自分自身を大切にしていいと思える。


 ルファードが静かに尋ねた。


「これから何がしたい?」


 エルザは少し考えたあと、微笑んだ。


「今度は」


 風が髪を揺らす。


「誰かに耐えるためじゃなく、幸せになるために生きたいです」


 ルファードは優しく目を細めた。


「それなら、きっと君は誰より上手く生きられる」


 王都の鐘が鳴る。


 暖かな春の日差しの中で、エルザは静かに笑った。


 その笑顔はもう、決して曇ることはなかった。



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― 新着の感想 ―
面白い話でした。 見事なざまぁですが、あまりにも無能すぎるので両親がどんな教育をしたのか知りたいです。
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