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第8話 隣国の宝

第8話 隣国の宝


 隣国アルシュタイン王国の王都は、春の光に満ちていた。


 磨き上げられた白石の街路。

 噴水の澄んだ水音。

 焼き立てのバター菓子の甘い香り。


 辺境伯領の重苦しい空気とはまるで違う。


 窓の外では色とりどりの花が咲き、王都中央通りには笑顔の人々が行き交っていた。


 エルザは王宮の執務室で、静かにペンを走らせていた。


 さらさら、と紙を擦る音。


 机の上には整然と並ぶ書類。

 香りの良い紅茶。

 朝焼きのクロワッサン。


 五年前の自分なら信じられなかっただろう。


 仕事をしながら、温かい食事を取れることを。


 誰にも怒鳴られず、罵られず、感謝されながら働けることを。


「エルザ様、本日の北部交易報告です」


 若い文官が丁寧に書類を差し出す。


「ありがとうございます」


 エルザが微笑むと、青年はぱっと顔を明るくした。


「い、いえ! こちらこそ!」


 その反応に、エルザは少しだけ戸惑う。


 感謝されることに、まだ慣れない。


 王宮の執務室は明るかった。


 大きな窓から春の日差しが差し込み、淡い金色のカーテンが柔らかく揺れている。暖炉には香木が焚かれ、ほのかに甘い香りが部屋を包んでいた。


 辺境伯領の冷たい執務室とは違う。


 あそこはいつも寒かった。


 薪代を削るため、自分だけ暖炉を我慢していたからだ。


「顔色が良くなったな」


 低い声がした。


 振り返ると、ルファードが立っていた。


 漆黒の軍服。

 銀の装飾。

 整った横顔。


 だが、その灰青色の瞳だけはどこまでも静かで優しい。


 エルザは立ち上がり、一礼した。


「ルファード殿下」


「堅苦しい。二人きりの時は名前で呼べと言ったはずだ」


 ルファードは苦笑しながら机へ近づいた。


 彼の後ろから、焼き立てのパイの香りが漂ってくる。


「昼食を持ってきた」


「……昼食?」


「また仕事に集中して食べ忘れていただろう」


 図星だった。


 エルザが目を瞬かせると、ルファードは小さく息を吐いた。


「君は放っておくと働き続ける」


 テーブルへ並べられた料理は、どれも温かそうだった。


 茸のクリームスープ。

 香草を詰めた鶏肉のパイ。

 果実のサラダ。

 蜂蜜入りの紅茶。


 湯気が立っている。


 エルザはしばらく、その光景を見つめていた。


 以前の自分は、冷えた黒パンを急いで流し込むだけだった。


 食事は“作業”だった。


 けれど今は違う。


「……美味しそうです」


「実際美味い」


 ルファードが椅子を引く。


「座れ」


 二人で向かい合って食事を始める。


 スープを口に含んだ瞬間、エルザは少し驚いた。


 温かい。


 優しい味がする。


「どうした?」


「……いえ」


 喉が熱くなる。


 ただ温かい食事を口にしただけなのに、涙が出そうになる自分がいた。


 ルファードは静かに彼女を見つめた。


「無理に頑張らなくていい」


「……」


「君はもう、誰かに搾取される必要はない」


 エルザは俯いた。


 その言葉が胸へ染み込んでいく。


「私は」


 震える声で呟く。


「殿下に救われました」


 だがルファードはすぐに首を振った。


「違う」


 きっぱりと言った。


「私は君を救ったわけではない」


 エルザが顔を上げる。


 ルファードは真っ直ぐ彼女を見つめていた。


「君ほどの才覚を、正当に評価しただけだ」


「君は元々、それだけの価値を持っていた」


 静かな声だった。


 けれど、誰よりも強かった。


 エルザの胸が熱くなる。


 今まで一度も言われたことがない言葉だった。


 価値があると。

 必要だと。

 努力を認めると。


 辺境伯領では、働けば働くほど当たり前にされた。


 感謝されることなどなかった。


 だから今、胸の奥で何かがゆっくり溶けていく。


 働くことが、苦しくない。


 初めてそう思えた。


 一方その頃。


 王都外れの薄汚れた宿屋で、グレイグは震えていた。


 薄暗い部屋。

 湿った藁布団。

 酸っぱい酒の臭い。


 かつて辺境伯だった男は、今や平民落ちした罪人だった。


 髪は乱れ、髭は伸び放題。

 上等だった外套も、今では泥に汚れたぼろ布同然だ。


 机の上には硬い黒パンが一つ。


 だが食欲は湧かなかった。


「……エルザ」


 掠れた声が漏れる。


 彼の脳裏には、あの日の姿が焼き付いていた。


 濃灰色のドレス。

 静かな微笑み。

 去っていく背中。


 なぜ気付かなかったのか。


 領地を支えていたのが誰だったのか。


 自分は何を失ったのか。


 グレイグは顔を覆った。


「俺は……」


 後悔が、遅すぎるほど胸を焼く。


 強制労働送りは明後日に決まっていた。


 鉱山送りだ。


 一生、泥と岩の中で終わる。


 だがその前に。


 一度だけでも会いたかった。


 謝りたかった。


 許されなくてもいい。


 せめて、自分がどれほど愚かだったか伝えたかった。


 グレイグは重い身体を引きずるように立ち上がる。


 窓の外では、王都の白い王宮が夕陽に輝いていた。


 かつて自分が見下していた妻は、今あの場所にいる。


 自分には決して届かない場所に。


 それでもグレイグは、ぼろぼろの靴で歩き出した。


 最後の希望に縋るように。



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