第7話 破滅の三日目
第7話 破滅の三日目
三日目の朝。
辺境伯領には、重たい雨が降っていた。
空はどこまでも暗く、まるで太陽そのものがこの土地を見放したかのようだった。泥に濡れた街路には人々が溢れ、領主館の前では怒号と泣き声が入り混じっている。
「食料を返せ!!」
「子供が飢えてるんだぞ!」
「薬師も逃げたって本当か!?」
石を投げる音がした。
窓硝子が割れ、使用人の悲鳴が上がる。
領主館はもう、貴族の館ではなかった。
沈みゆく船だ。
誰もがそう理解していた。
館の食堂では、グレイグが苛立った様子で冷え切ったスープを睨んでいた。
白い陶器皿の中には、具のほとんど入っていない薄い豆の汁がわずかに残っているだけ。添えられた黒パンは硬く、指で叩けば石のような音がした。
「……こんなものを食えと言うのか」
掠れた声で呟く。
昨日からまともな食事をしていない。
豪華な晩餐も。
高級葡萄酒も。
焼き立ての肉料理も。
全部消えた。
料理長はやつれた顔で頭を下げる。
「申し訳ありません……本当に食材がなく……」
グレイグは拳を握り締めた。
胸の奥がざわつく。
何かがおかしい。
たった三日だ。
たった三日で、どうしてここまで崩れる。
その時だった。
外から、重々しいラッパの音が響いた。
使用人が青ざめながら飛び込んでくる。
「へ、辺境伯様!!」
「今度はなんだ!」
「王都から監査官が……!」
グレイグの顔色が変わる。
「監査官だと?」
正門前には、黒い軍馬に跨った一団が並んでいた。
王国監査局。
銀色の外套を纏う役人たちの姿に、領民たちがざわめく。
その中央には、一台の漆黒の馬車。
側面には双頭鷲の紋章。
隣国皇族の紋章だった。
グレイグの喉が鳴る。
「……なぜ、隣国の紋章が」
馬車の扉が開く。
降りてきたのは、黒衣の男だった。銀縁眼鏡の奥に冷たい瞳を宿し、寸分の乱れもない軍装を着込んでいる。
男は一礼した。
「隣国皇太子ルファード殿下の代理として参りました、ヴァイスと申します」
静かな声だった。
だが、その場の空気を一瞬で凍らせるほど冷たい。
続いて王国監査官が前へ出る。
年配の男だった。
灰色の外套を羽織り、分厚い書類束を抱えている。
「グレイグ・フォン・辺境伯」
「……何の用だ」
「領地財政の緊急監査を行う」
有無を言わせぬ口調だった。
監査は、驚くほど早く終わった。
いや。
終わってしまった。
財務官たちは次々と青ざめ、机へ突っ伏していく。未払い契約書。融資証明。負債一覧。赤字補填記録。
それらはすべて、エルザが一人で隠し続けていた現実だった。
「……そんな」
グレイグの唇が震える。
監査官は冷酷な声で読み上げた。
「辺境伯領、負債総額――五億三千八百万ゴールド」
その場が静まり返る。
「返済能力、なし」
「主要契約、すべて失効」
「担保価値、大幅不足」
紙をめくる音だけが響く。
グレイグは真っ青になった。
「ま、待て……!」
「そんなはずがない!」
「領地は黒字だった!」
すると監査官は冷ややかに言った。
「黒字ではありません」
「エルザ・アルヴェーン様個人の信用融資で延命されていただけです」
「嘘だ……」
「嘘ではない」
ヴァイスが静かに口を開く。
「エルザ様は、ご自身の財産と信用を切り崩し続け、この領地を支えておられた」
「それを失った今、残ったのは負債だけです」
グレイグは言葉を失う。
頭の中が真っ白だった。
その時。
監査官が最後の書類を閉じた。
「結論を通達する」
雨音が強くなる。
まるで死刑宣告の前触れのように。
「グレイグ・フォン・辺境伯」
「貴殿の領地は、本日付で自己破産となる」
世界が止まった。
「……は?」
「併せて爵位剥奪」
「領地は王国管理下へ移行する」
その瞬間、グレイグの膝が崩れ落ちた。
泥水が高級なズボンを汚す。
「う、嘘だ……」
「俺は辺境伯だぞ……!」
「俺の領地だ……!」
誰も答えなかった。
周囲の使用人たちは視線を逸らし、領民たちは遠巻きに彼を見つめている。
その中には、かつてエルザを嘲笑っていた者たちもいた。
「エルザ様がいなくなってから全部壊れた……」
「本当に領地を守ってたのは……」
「辺境伯様じゃなかった……」
絶望が静かに広がっていく。
その時だった。
領主館の裏口から、悲鳴が上がった。
「離しなさい!!」
「触らないで!!」
振り返ると、憲兵たちに取り押さえられたミリアがいた。
豪華な毛皮のコートを羽織り、大きな鞄を抱えている。
鞄の口からは金貨袋が覗いていた。
「ミリア……?」
グレイグの声が掠れる。
ミリアは涙を滲ませながら叫んだ。
「だってしょうがないじゃない!!」
「このままじゃ私まで貧乏になるもの!」
「私は聖女なのよ!?」
「こんなところで終わるわけには――」
憲兵が冷たく告げる。
「領主財産窃盗未遂の現行犯だ」
「連行しろ」
「いやっ!! 離して!!」
「グレイグ様!! 助けてぇ!!」
だがグレイグは動けなかった。
泥の中へ座り込んだまま、呆然と彼女を見つめることしか出来ない。
雨が降り続く。
冷たい。
寒い。
惨めだった。
その時。
グレイグの脳裏へ、エルザの姿が浮かんだ。
いつも帳簿を抱えていた背中。
冷えたスープを黙って飲む横顔。
誰にも感謝されなくても働き続けた姿。
そして。
『お前一人いなくなった程度で何も変わらん』
自分が吐いた言葉。
違った。
変わったのではない。
すべて終わったのだ。
エルザが消えた瞬間から。
グレイグは泥水の中で震えながら、ようやく理解した。
エルザこそが、この領地の盾だった。
心臓だった。
そして、自分はその心臓を、自ら捨てたのだと。




