第6話 破滅の二日目
第6話 破滅の二日目
二日目の朝。
辺境伯領には、鉛色の空が広がっていた。
冷たい雨が石畳を濡らし、街路にはぬかるんだ泥が広がっている。市場へ続く通りは異様なほど静かだった。昨日まで並んでいた露店はほとんど姿を消し、パン屋の前には長蛇の列だけが残っている。
「まだか!」
「うちの子が昨日から何も食べてないんだぞ!」
怒鳴り声が響く。
だが店主は顔を青くして首を振るしかなかった。
「小麦が届かねぇんだ……!」
いつも夜明け前には到着していた輸送馬車が、一台も来ない。
肉もない。
野菜もない。
薬草もない。
市場全体に、焦げたような不安の匂いが漂っていた。
一方、領主館はさらに酷かった。
広間には泥だらけの靴跡が無数に残り、文官たちは目の下へ濃い隈を作ったまま書類へ齧りついている。昨夜から誰もまともに眠っていない。
朝食の席ですら地獄だった。
長い食卓へ並んでいたのは、冷えた黒パンと薄い豆のスープだけ。
以前なら毎朝並んでいた白パンも、卵料理も、果物もない。
グレイグは不機嫌そうに皿を睨みつけた。
「なんだこれは」
料理長が震えながら頭を下げる。
「し、仕入れが止まっておりまして……」
「昨日も同じことを聞いた!」
「ですが本当に食材が……」
グレイグは苛立ちのままスプーンを叩きつけた。
がちゃん、と鈍い音が広間へ響く。
その時だった。
外から馬車の音が聞こえてきた。
しかも一台ではない。
何台も。
窓の外を見ると、巨大な商会馬車が次々と正門へ到着していた。黒塗りの馬車には、それぞれ有名商会の紋章が刻まれている。
王都最大級の商会ばかりだ。
グレイグの顔が明るくなる。
「ようやく来たか!」
「まったく、対応が遅い」
彼はマントを翻し、そのまま広間を出て行った。
だが。
正門前で待っていたのは、救いではなかった。
豪奢な毛皮の外套を羽織った商会長たちは、誰一人笑っていなかったのである。
雨の中、彼らは冷えた視線でグレイグを見つめていた。
「これはこれは、辺境伯様」
王都ラング商会の会長が一礼する。
しかしその声には皮肉が滲んでいた。
「朝早くから何の用だ」
グレイグが不機嫌そうに言う。
すると男は淡々と書類を差し出した。
「契約終了通知書です」
「……は?」
「エルザ様が辺境伯家から離脱された以上、我々との契約は本日付で終了となります」
グレイグは眉をひそめた。
「何を馬鹿なことを」
「契約相手は辺境伯家のはずだ」
「いいえ」
別の商会長が冷たく言った。
「契約相手は“エルザ・アルヴェーン様個人”です」
雨音だけが響く。
グレイグの顔色が変わった。
「……なんだと?」
「我々が信用していたのは、エルザ様の才覚と返済能力です」
「辺境伯家ではありません」
次々と書類が差し出される。
「未払い融資、三千万ゴールド」
「北方輸送路整備費、一千二百万ゴールド」
「関税保証金、八百万ゴールド」
グレイグの喉がひくりと鳴った。
「な、何を言っている……」
「即時返済をお願いいたします」
「ふざけるな!!」
グレイグが怒鳴る。
「そんな大金、今すぐ払えるわけが――」
「払えない?」
商会長たちの目が冷える。
「では、担保回収に入ります」
その瞬間だった。
グレイグの背筋へ、ぞわりと冷たいものが走る。
彼は初めて理解した。
今まで“黒字”だと思っていた領地経営は、すべてエルザ個人の信用で成り立っていたのだと。
彼女が消えた瞬間、それらは全部崩れる。
まるで砂の城のように。
「金庫だ!」
グレイグは叫んだ。
「金庫を開けろ!!」
慌てて地下金庫へ駆け込む。
重たい鉄扉が開く。
だが。
「……は?」
中は、ほとんど空だった。
積まれているはずの金貨箱がない。
あるのは僅かな銀貨だけ。
財務官が真っ青な顔で震えている。
「舞踏会費用と……劇場建設費、それからミリア様の離宮建設費で……」
「そんなはずはない!!」
「先月だけで宝石購入に二百万ゴールド以上を……」
グレイグの頭が真っ白になる。
そこへ、さらに追い打ちが来た。
「辺境伯様!!」
騎士が飛び込んでくる。
「市場で暴動が!」
「何だと!?」
外へ出ると、街はすでに混乱していた。
「食料を寄越せ!!」
「子供が熱を出してるのに薬がないんだ!」
「ふざけるな!!」
怒号。
悲鳴。
泣き声。
市場の店では空っぽの棚を前に、人々が押し合っていた。
その時、誰かが叫ぶ。
「エルザ様がいた頃は、こんなことなかったぞ……!」
別の女が唇を震わせる。
「冬でも食料は足りてた……」
「薬草だって届いてた……」
「魔獣被害も……」
人々の顔から血の気が引いていく。
彼らは今さら気付き始めていた。
いつも倉庫が満ちていた理由。
街道が安全だった理由。
冬を越せていた理由。
それを作っていたのが誰なのかを。
ミリアではない。
笑顔だけの聖女ではない。
辺境伯でもない。
泥だらけのドレスで、毎日帳簿を抱えていたあの女だったのだ。
その頃、領主館の自室ではミリアが涙目になっていた。
「どうしてこんなことになるの!?」
「グレイグ様、なんとかしてくださいよぉ!」
だがグレイグには、もう怒鳴る気力すら残っていなかった。
窓の外では、雨が激しくなっている。
そしてその冷たい雨音の中で。
辺境伯領は、確実に沈み始めていた。




