第5話 破滅の一日目
第5話 破滅の一日目
翌朝。
辺境伯邸は、夜明けと同時に悲鳴で目を覚ました。
「大変です!!」
まだ朝靄の残る廊下を、書類を抱えた文官が転がるように駆けていく。誰かが階段で紙束をぶちまけ、乾いた羊皮紙が雪崩のように散らばった。
普段なら、まだ静かな時間帯だった。
エルザが執務室で一人、淡々と仕事を片付けているはずの時刻。
だが今日、その姿はどこにもない。
「税率計算表が見つかりません!」
「北方交易の承認印がありません!」
「第三倉庫の在庫が合わない!」
「関税書類が未処理です!」
怒号が飛び交う。
侍女たちは青ざめ、文官たちは半泣きになりながら机を漁っていた。
執務室の中央には、未処理書類の山。
三百七十二件。
まるで小さな城壁のように積み上がっている。
普段ならエルザが一日で片付けていた量だ。
「なんだこれは……!」
寝起きのグレイグが執務室へ飛び込んできた。
黒のガウンを雑に羽織ったまま、顔には苛立ちが浮かんでいる。
「朝からうるさいぞ!」
文官の一人が泣きそうな顔で振り返った。
「へ、辺境伯様……! 決裁が止まっています!」
「止まっているだと?」
「エルザ様しか処理方法をご存知ない案件が多すぎて……!」
「そんな馬鹿な話があるか!」
グレイグは机を叩いた。
「ただの事務作業だろう!」
だが文官たちは顔を見合わせるだけだった。
「税率調整の計算式が分かりません……」
「輸送許可証の発行条件も……」
「交易契約の優先順位が複雑すぎて……」
グレイグの額に汗が滲む。
その時だった。
別の使用人が血相を変えて飛び込んでくる。
「大変です!! 北門の輸送隊が動きません!」
「は?」
「許可証が出ていないため、商人たちが足止めを……!」
「そんなもの適当に押せばいいだろう!」
「そ、それが……偽造防止魔術がかかっていて、エルザ様の印章しか反応しないのです!」
部屋が静まり返る。
グレイグは言葉を失った。
そんな仕組みがあることすら知らなかった。
「……ミリア」
低い声だった。
グレイグはゆっくり振り返る。
そこには、淡い桃色の朝用ドレスを着たミリアが立っていた。甘い花の香油の匂いがふわりと漂う。
彼女は眠たげに欠伸を噛み殺していた。
「お前、やれ」
「えぇ?」
ミリアはぱちぱちと目を瞬かせる。
「だってお前、いつもエルザの代わりに領民を支えていたんだろう?」
「そ、それは……」
「このくらい出来るはずだ」
グレイグの声に焦りが混じる。
だがミリアは露骨に顔をしかめた。
「私ぃ、数字を見ると頭が痛くなっちゃうんですぅ……」
「は?」
「難しい書類とか、本当に苦手で……」
困ったように笑うミリア。
その場の空気が凍った。
文官たちの顔から血の気が引いていく。
グレイグのこめかみがひくりと震えた。
「……役に立たん」
「そんな言い方ひどい!」
ミリアは唇を尖らせる。
「私は癒やし担当ですもの!」
そして空気の悪さに耐えられなくなったのか、そそくさと部屋を出ていってしまった。
残されたのは沈黙だけだった。
その頃、屋敷の厨房ではさらに深刻な事態が起きていた。
「小麦が届いていません!」
「肉の仕入れも止まっています!」
「今日の晩餐、どうするんですか!?」
料理長が頭を抱える。
普段なら夜明け前に到着しているはずの食材馬車が、一台も来ない。
倉庫を確認した使用人が青ざめた声を上げる。
「在庫がほとんど残ってません……!」
「昨日の宴で使い切ったのか!?」
「い、いえ……本来なら今日補充される予定で……」
その瞬間、全員が理解した。
物流そのものが止まっている。
昼頃には領内各地から悲鳴のような報告が届き始めた。
「西部農地で魔獣発生!」
「第四村落が襲われています!」
「結界が機能していません!」
グレイグは怒鳴った。
「騎士団を出せ!!」
だが騎士団長は険しい顔で首を振る。
「間に合いません」
「何故だ!?」
「これまで魔獣が領内へ入り込まなかったのは、エルザ様の結界術があったからです」
「結界術?」
「はい。辺境全域へ魔力を流し、侵入を抑制しておられました」
グレイグは絶句した。
「……そんな話、聞いていないぞ」
「エルザ様はご自身から仰いませんでしたので」
騎士団長の声には、どこか冷えたものが混じっていた。
窓の外では鐘の音が鳴り響く。
避難警鐘だ。
遠くから、領民たちの悲鳴が風に乗って聞こえてくる。
「助けてくれ!!」
「魔獣だ!!」
「子供がまだ外に!」
グレイグの喉がひくりと鳴った。
こんなことは今まで一度もなかった。
いや。
“起こらないようにされていた”のだ。
それを彼は今、初めて知った。
夕方になる頃には、領主館の空気は完全に変わっていた。
誰も笑わない。
誰も余裕がない。
廊下を歩く使用人たちの顔は青ざめ、文官たちは机へ突っ伏しながら必死に計算を続けている。
そして夜。
最後の報告が届く。
伝令の男は泥だらけのまま膝をついた。
「ほ、北方街道の商隊が……」
「どうした!」
「すべて撤退しました……!」
「なに?」
「“エルザ様がおられない以上、契約は無効”とのことです……!」
静まり返る執務室。
その時、グレイグは初めて背筋に冷たいものを感じた。
窓の外では、雪混じりの雨が降っていた。
辺境伯領へ続く街道には、もう一台の商隊も見えない。
物流が、止まったのだ。
完全に。
まるで、この領地そのものが見捨てられたかのように。




