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第4話 一億ゴールド貯まったので離婚します

第4話 一億ゴールド貯まったので離婚します


 翌朝の辺境伯邸は、異様なほど静かだった。


 昨夜の祝宴の名残が、まだ廊下のあちこちに残っている。割れたワイングラス。踏み潰された花びら。甘ったるい酒と香油の匂い。酔い潰れた貴族たちが騒いだ跡が、まるで醜い夢の残骸のように散らばっていた。


 窓の外には薄曇りの空。


 冷たい朝靄が庭を覆っている。


 エルザは静かに自室を見回した。


 広い部屋だった。


 だが五年間、この部屋を“自分の居場所”だと思えたことは一度もない。


 壁際の書棚。

 簡素な机。

 積み上がった帳簿。

 擦り切れた羽織。


 華やかな装飾品は何もなかった。


 辺境伯夫人の部屋とは思えないほど質素だ。


 クローゼットを開けば、並んでいるのは地味なドレスばかりだった。仕事の邪魔にならぬよう装飾を削った実用品。何度も補修した跡のある袖口。


 エルザはその中から、一番動きやすい濃灰色のドレスを選んだ。


 胸元に小さな黒刺繍が入っているだけの、飾り気のない服。


 鏡の前で髪をまとめる。


 淡い金色の髪は、昔よりずいぶん艶を失っていた。


「……終わったのね」


 ぽつりと呟く。


 不思議だった。


 もっと苦しいと思っていた。


 もっと泣きたくなると思っていた。


 けれど胸の奥にあるのは、痛みではなく静かな解放感だった。


 エルザは机の引き出しから、古びた革表紙の帳簿を取り出す。


 五年間の記録。


 利益。

 損失。

 融資。

 契約。

 税率。


 この領地を生かすために積み上げ続けた数字。


 その最後の頁には、昨夜書き込んだ金額が残っている。


 ──一億ゴールド。


 エルザはそっと帳簿を閉じた。


 必要な荷物は少ない。


 契約書。

 印章。

 通帳。

 着替えを数着。


 それだけだった。


 辺境伯家から持ち出したい思い出など、一つもない。


 廊下へ出ると、使用人たちがぎょっとした顔をした。


「エ、エルザ様……?」


「本当にお発ちになるのですか……?」


 若い侍女が青ざめた顔で訊ねる。


 エルザは穏やかに微笑んだ。


「ええ」


「今までありがとう」


 侍女の目に涙が滲む。


「ですが……エルザ様がいなくなったら、この屋敷は……」


 言葉は途中で止まった。


 彼女自身、理解しているのだろう。


 誰がこの領地を回していたのか。


 エルザは静かに首を振った。


「大丈夫よ」


 その言葉が、本当に誰に向けたものだったのか、エルザ自身にも分からなかった。


 正門前には、朝露に濡れた石畳が広がっていた。


 冷たい風が頬を撫でる。


 エルザは小さな革鞄を抱え、静かに門を見上げた。


 五年間暮らした屋敷。


 愛された記憶はない。


 だが確かに、自分の人生を削り続けた場所だった。


「……さようなら」


 その時。


 背後から気怠そうな声が響いた。


「本当に出て行くのか?」


 振り返ると、グレイグが欠伸を噛み殺しながら立っていた。


 昨夜の酒がまだ残っているのか、髪は乱れ、シャツの襟元も開いたままだ。


 その隣にはミリアまでいる。


 白いガウン姿の彼女は、眠たげにグレイグへ寄り添っていた。


「まあ、本当に荷物まとめちゃったんですねぇ」


 くすくす笑うミリア。


 グレイグは呆れたように肩を竦めた。


「まあいい」


「どうせすぐ泣いて戻ってくる」


「お前一人で生きていけるわけがないからな」


 エルザは黙って鞄から一枚の書類を取り出した。


 羊皮紙。


 赤い封蝋。


 辺境伯家とアルヴェーン伯爵家の紋章。


 結婚契約書だった。


 グレイグが眉をひそめる。


「なんだそれは」


 エルザは静かに頁を開いた。


 そこには、はっきり記されている。


 離婚時、辺境伯家は妻へ一億ゴールドを支払うこと。


 政略結婚ゆえの特別条項。


 当時、破綻寸前だった辺境伯家が、エルザの持参金と後ろ盾を得るために交わした契約だった。


 グレイグは鼻で笑う。


「今さらそんなものを持ち出してどうする」


 エルザは真っ直ぐ夫を見た。


 もう恐れはなかった。


「契約通りです」


 朝風が彼女の髪を揺らす。


「『一億ゴールド貯まったので離婚します』」


 一瞬。


 空気が止まった。


 ミリアが目を丸くする。


「え……?」


 エルザは続けた。


「私個人の資産、ならびに私名義の全商取引権を、本日付で引き上げます」


「交易契約、融資契約、輸送管理権、関税協定も含め、すべて解除済みです」


 グレイグの表情が僅かに曇る。


「……何を言っている?」


「私は辺境伯家ではなく、個人名義で契約を結んでいましたので」


「は?」


「本日をもって、すべて終了します」


 静かな声だった。


 だが、その内容は致命的だった。


 けれどグレイグは理解しない。


 いや、理解できなかった。


 彼は不機嫌そうに手を伸ばし、契約書を乱暴に奪い取る。


「くだらん脅しだ」


「勝手にしろ」


「お前一人いなくなった程度で何も変わらん」


 羽ペンを掴み、乱暴に署名する。


 インクが滲む。


 その瞬間だった。


 まるで目に見えない何かが、ぷつりと切れた気がした。


 辺境伯領を繋ぎ止めていた命綱。


 信用。

 融資。

 契約。

 流通。


 そのすべてが、今完全に断ち切られたのだ。


 だがグレイグは気付かない。


「さっさと行け」


 吐き捨てるように言う。


「二度と戻ってくるな」


 エルザは小さく一礼した。


「ええ。戻りません」


 その時だった。


 屋敷の外から、馬車の止まる音が響く。


 重厚な黒塗りの馬車。


 側面には、銀の双頭鷲の紋章。


 隣国皇族の紋章だった。


 使用人たちがざわめく。


「皇族の馬車……?」


「なぜここに……」


 御者が扉を開く。


 そして、中から一人の男が降り立った。


 長い銀髪。

 氷のような灰青色の瞳。

 漆黒の軍服。


 隣国皇太子ルファード。


 その場の空気が変わる。


 グレイグが狼狽えた。


「な、なぜ皇太子殿下が……!?」


 ルファードは彼を一瞥もしなかった。


 ただ真っ直ぐエルザの前まで歩み寄る。


 そして静かに頭を下げた。


「ようやく、お迎えに上がれました」


 その声は低く、驚くほど優しかった。


 エルザの喉が詰まる。


 五年間。


 誰にも労われなかった。


 誰にも必要とされなかった。


 その彼女へ向けられた、初めての敬意だった。


 胸の奥が熱くなる。


 泣かないと決めていたのに。


 それでもエルザは、少しだけ泣きそうな顔で微笑んだ。


「……お待たせいたしました」


 その背後で、グレイグが初めて僅かな不安を覚えたことに、まだ誰も気付いていなかった。



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