第3話 結婚五周年記念パーティ
第3話 結婚五周年記念パーティ
辺境伯家の大広間は、眩しいほどの光に包まれていた。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアには、何百本もの蝋燭が灯され、金色の輝きが磨き上げられた床へ反射している。楽団が奏でる優雅な弦楽器の旋律。葡萄酒の甘い香り。焼き立ての肉料理から立ち上る湯気。
祝いの夜だった。
辺境伯グレイグと、その妻エルザの結婚五周年記念パーティ。
本来ならば。
「素晴らしいですねぇ、この豪華さ」
「さすが辺境伯様だ」
「以前の貧しい領地とは大違いですな」
貴族たちは上機嫌に笑いながら、銀皿へ次々と料理を取り分けていた。
香草をまぶした鹿肉のロースト。
蜂蜜ソースの鴨料理。
濃厚なチーズパイ。
色鮮やかな果実酒。
そのどれもが高価なものばかりだ。
だが、その宴の中心にいるはずのエルザだけが、まるで別世界にいるようだった。
会場の一番奥。
壁際に用意された席。
彼女の前に置かれた料理はすでに冷めていた。
エルザは静かにワイングラスへ口をつける。
薄い赤葡萄酒の酸味が舌に広がった。
今夜の彼女は、深い藍色のドレスを纏っていた。派手な装飾はない。胸元へ小さな銀刺繍が施されているだけの質素な衣装だ。
対照的に、グレイグの隣で笑うミリアは眩しかった。
純白の絹のドレス。
真珠を散りばめた髪飾り。
透き通るような白肌。
まるで物語に出てくる姫君のようだった。
「ミリア様、本当にお美しい」
「まさに聖女ですなぁ」
「辺境伯様とは実にお似合いだ」
次々と向けられる賛辞に、ミリアは頬を染めて笑う。
「そんな……皆さま、褒めすぎです」
「謙虚なところも素晴らしい!」
会場が笑いに包まれる。
エルザはただ静かにそれを見つめていた。
不思議と、もう胸は痛まなかった。
以前なら傷ついていたはずだ。
夫が他の女へ向ける優しい視線も。
周囲のあからさまな軽視も。
孤独も。
けれど今は、どこか遠くの出来事のように感じる。
その時だった。
グレイグが突然立ち上がった。
楽団の演奏が止まる。
広間中の視線が、一斉に彼へ集まった。
グレイグはワイングラスを掲げ、満足げに笑う。
「今日は皆、よく集まってくれた!」
「この五年、我が辺境伯領は大きく発展した!」
「これも、ひとえに――」
そこで彼はミリアの肩を抱き寄せる。
「ミリアの支えがあったからだ!」
拍手が起こった。
エルザの指先が、わずかに止まる。
「彼女は領民を愛し、慈しみ、この領地へ光を与えてくれた」
「素晴らしい!」
「聖女様万歳!」
酔った貴族たちが囃し立てる。
グレイグはますます気分を良くしたようだった。
そして。
笑いながら言った。
「そこで私は決めた」
「ミリアを正妻として迎えたいと思っている」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、会場がどっと沸いた。
「おおおっ!!」
「ついにですか!」
「当然ですな!」
「辺境伯様とミリア様こそ理想の夫婦だ!」
拍手。
歓声。
グラスのぶつかる音。
誰もが祝福していた。
まるで、そこにエルザなど最初から存在していないかのように。
グレイグはゆっくりとエルザを見下ろす。
その目には、わずかな優しさもなかった。
「エルザ」
冷たい声。
「お前は側室に降格だ」
広間が静まり返る。
グレイグは続けた。
「嫌なら出て行け」
エルザは何も言わなかった。
代わりに、会場のあちこちから囁き声が上がる。
「まあ……」
「仕方ありませんな」
「愛されない正妻など飾りにもならん」
さらに、領民代表として招かれていた商人が口を開いた。
「ミリア様こそ、我々の希望です」
「エルザ様は厳しすぎる」
「税や支出の話ばかりで、冷たいお方ですからなぁ」
別の男も頷く。
「ミリア様はいつも笑顔でパンを配ってくださる」
「本当にお優しい」
エルザは静かに彼らを見渡した。
この人たちは知らない。
飢饉の冬、どれだけ赤字を抱えながら食糧を確保したか。
どれだけ頭を下げて融資を受けたか。
どれだけ眠らずに帳簿を計算したか。
吹雪の夜、凍える手で交易路を守ったことも。
誰も知らない。
いや。
知ろうともしなかった。
「黙っているということは認めるんだな」
グレイグが勝ち誇ったように笑う。
「正直、お前は辺境伯夫人には向いていなかった」
「陰気で、愛想もない」
「お前を追い出せば、この領地はもっと豊かになる」
その言葉を聞いた瞬間だった。
胸の奥で、何かが音を立てて切れた。
ああ、とエルザは思う。
もう無理だ。
もう、この人たちのために尽くしたくない。
五年間。
本当に長かった。
冷えた執務室。
終わらない帳簿。
誰にも感謝されない仕事。
夫の侮辱。
領民の悪意。
全部。
全部、終わりでいい。
エルザはゆっくりと席を立った。
藍色のドレスの裾が静かに揺れる。
会場の視線が集まった。
グレイグが眉をひそめる。
「なんだ、その顔は」
エルザは微笑んだ。
それは、この五年間で初めて見せるような穏やかな笑みだった。
「分かりました」
静かな声だった。
けれど、不思議なほど広間によく響く。
「では、ここを去ります」
一瞬。
誰も意味を理解できなかった。
ミリアがきょとんと目を瞬かせる。
「え……?」
グレイグは呆れたように鼻で笑った。
「はっ、どうせすぐ泣いて戻ってくる」
「行く場所などないくせに」
貴族たちも笑う。
「その通りですな」
「辺境伯家を離れて生きていけるものか」
エルザは何も答えなかった。
ただ静かに一礼する。
その横顔は、不思議なほど晴れやかだった。
まるで長い牢獄から、ようやく解放される人間のように。
窓の外では、春の夜風が静かに吹いていた。




