第2話 都合のいい財布
第2話 都合のいい財布
春を迎えた辺境伯領は、久しぶりに活気づいていた。
石畳の市場には色鮮やかな果物が並び、焼き立てのライ麦パンの香りが通りを満たしている。露店では子供たちが蜂蜜菓子を頬張り、旅商人たちの威勢のいい声が飛び交っていた。
五年前には考えられなかった光景だった。
かつてこの土地は、冬が来るたび死人が出るほど貧しかったのだから。
だが、人々は知らない。
この豊かさが、誰によって支えられているのかを。
辺境伯夫人エルザは、馬車の窓から街を眺めながら静かに目を閉じた。
向かいには山積みの書類。今日も朝から視察帰りだった。
水路整備は予定通り進行。
第三倉庫の小麦備蓄は回復傾向。
北方交易の利益率は先月比で一・二倍。
数字だけを見れば、領地経営は順調そのものだ。
けれどエルザの胸は少しも晴れなかった。
馬車が屋敷へ到着すると、正門前に豪奢な荷馬車が何台も停まっていた。鮮やかな深紅の布で覆われた積荷には、王都の高級商会の紋章が刻まれている。
嫌な予感がした。
玄関へ入った瞬間、使用人たちの慌ただしい声が耳に飛び込んでくる。
「慎重に運んで! それはミリア様のドレスです!」
「宝飾箱は二階の衣装部屋へ!」
「劇場建設用の見積書はこちらに!」
エルザは立ち止まった。
広間には、金糸を織り込んだドレスが何着も広げられている。淡い薔薇色のシルク。星屑のように煌めく銀刺繍。触れれば滑り落ちそうな薄布。
その中央で、ミリアが嬉しそうにくるりと回っていた。
「グレイグ様、こちら素敵ではありませんか?」
「よく似合っている」
ソファへ腰掛けたグレイグは、葡萄酒を片手に満足げに笑っている。
その姿を見た瞬間、エルザの胃が重く沈んだ。
「……これは何ですか」
静かな声だった。
しかしグレイグは気にも留めない。
「ああ、戻ったのか」
軽い調子で答える。
「来月の舞踏会用だ」
「舞踏会だけで、この量を?」
「当然だろう。辺境伯家の威光を示すのだからな」
ミリアが嬉しそうにドレスの裾を持ち上げた。
「劇場も完成したら、王都の楽団を呼ぶ予定なんです!」
「劇場……?」
エルザは眉を寄せた。
「まさか、本当に建設を始めたのですか」
「当たり前だ」
グレイグは不機嫌そうに脚を組む。
「お前は毎回反対ばかりだな」
「現在の黒字は不安定です。冬季備蓄を優先しなければ、また飢饉が起きます」
「大袈裟だ」
グレイグは鼻で笑った。
「今の領地は豊かだ。民も笑っている。少しは余裕を持て」
「余裕ではありません。浪費です」
広間の空気がぴたりと止まる。
ミリアが困ったように目を伏せた。
「エルザ様……そんな言い方……」
「私は事実を申し上げています」
「嫉妬か?」
グレイグが冷たく言った。
「ミリアが領民に慕われているから気に食わないんだろう」
「違います」
「ならなぜ反対する?」
「必要のない支出だからです」
エルザは真っ直ぐ夫を見る。
「劇場建設に二十万ゴールド。舞踏会に十万。離宮改装に三十五万。今月だけで過剰支出が――」
「もういい!」
グレイグが机を叩いた。
ワイングラスが震え、赤い液体が白布へ飛び散る。
「お前は本当に金勘定ばかりだな!」
周囲に控えていた貴族たちが、くすくすと笑った。
「辺境伯夫人ともあろう方が、なんとも夢のない」
「だから愛されないのですよ」
「ミリア様を見習うべきですなぁ」
エルザは黙ってその声を聞いていた。
胸の奥が、じわりと冷える。
この者たちは知らない。
今この領地を走っている交易路も。
安定した塩供給も。
小麦価格の維持も。
融資契約も。
すべてエルザ個人の信用で成り立っていることを。
辺境伯家の名ではない。
エルザ・アルヴェーンという、一人の人間への信頼だけで動いているのだ。
だが、誰もそれを見ようとしない。
見えるのは、笑顔でパンを配るミリアだけ。
「エルザ様」
不意にミリアが歩み寄ってきた。
甘い花の香油の匂いが鼻を掠める。
「そんなに難しい顔ばかりしていたら、幸せが逃げてしまいますよ?」
無邪気な笑顔だった。
悪意すら感じないほどに。
だからこそ、疲れる。
エルザは静かに視線を逸らした。
「失礼します」
背を向けた瞬間、後ろからグレイグの声が飛ぶ。
「今夜の晩餐には出ろよ」
「……承知しました」
夜。
晩餐会の食卓は、驚くほど豪華だった。
香草を詰めた仔羊のロースト。海老と貝のクリーム煮。焼き立ての白パン。黄金色のバター。王都産の葡萄酒。
けれどエルザの口には、何も味がしなかった。
向かいではミリアが楽しそうに笑っている。
「まあ、この苺のタルトすごく美味しい!」
「気に入ったなら専属菓子職人を雇おうか?」
「本当ですか?」
「もちろんだ」
グレイグは優しく微笑む。
かつて一度でも、自分へそんな顔を向けただろうか。
エルザは静かにナイフを置いた。
その夜、執務室には冷たい雨音が響いていた。
窓硝子を叩く雨を聞きながら、エルザは机へ座る。
目の前には契約書の束。
王都三大商会との独占契約。
北方輸送路の管理権。
隣国との融資協定。
すべてに記されているのは、辺境伯家ではなく――エルザ個人の名。
彼女は一本ずつ、静かに書類を仕分けていく。
契約移譲。
資産保全。
輸送権分離。
ペン先が紙を擦る音だけが、静かな部屋に響いた。
誰も気付いていない。
辺境伯領という巨大な身体から、今まさに心臓が抜き取られようとしていることを。
エルザは蝋燭の火を見つめ、小さく呟いた。
「……もうすぐです」
雨は深夜になっても止まなかった。




