第14話 初めての夜
ノーチェがノーチェ・シエロになった日の夜のこと。ヌーベとブリッサはささやかなお祝いをしてくれた。
「ノーチェちゃん、お酒は好きかな?」
「その……飲んだことはないです……」
「飲んでみる?」
ヌーベがにこにこと笑顔を浮かべたまま問いかける。ノーチェは躊躇うように拳をそっと握って、おずおずと口を開いた。
「ちょっと……怖いです……」
「じゃあ、やめておこうか」
ヌーベは特に気を悪くした様子もなく、「果実水も用意してるからね。葡萄と白葡萄、どっちがいい?」と笑った。ノーチェは二つの瓶の間で視線を彷徨わせ、恐る恐る「……白葡萄で、お願いします」と答えた。
「はい、どうぞ」
ヌーベの手から、果実水が入ったグラスが渡される。
「おじさん、ぼくはワイン飲みたい」
「アルバはお酒に弱いでしょう? オレンジの果実水で割るから少し待ってちょうだいね」
「はーい」
手を挙げたアルバに、ブリッサが笑う。全員にグラスが行き渡ったところで、ヌーベはグラスを掲げた。
「アルバの家督相続と、ノーチェちゃんが新しい家族になったことを祝して、乾杯!」
かきん、とグラスがぶつかる音が響く。ノーチェはそっとグラスに口をつけた。果実水は甘いのにさっぱりした味わいで、ごくごく飲みたくなるような美味しさだ。
「……美味しい」
ぽつりとこぼしたノーチェに、三人は「でしょ?」と笑い声を上げた。
「アルバが家を継いでくれたから、安心して隠居できるな。ブリッサ、手始めにどこに旅行に行こうか」
ヌーベはご機嫌で杯を傾ける。それを見てブリッサが笑った。
「そうね。こんなおじいさんおばあさんが家にいたら、ノーチェちゃんも落ち着かないかしら」
「ちょっとちょっとぉ。ぼく、引き継いだばっかりなんだけど」
アルバはあきれたようなポーズを取りつつも、楽しそうに笑う。こんな温かい食卓は母が亡くなって以来かもしれないと、ノーチェはぼんやりと思った。
「……ふふっ」
彼女の口から小さく笑い声が漏れる。それは温かい食卓の空気に、ひっそりと溶けていった。
◇
結局、ノーチェはその日、自室のベッドを使うことにした。
「怖い夢とか見たら起こしてくれていいからね」
アルバは笑って、寝室に入る。
「ドア、開けとく?」
「……そうしてもらっていい?」
「もちろんいいよ。おやすみ」
彼は優しく微笑むと、小さく手を振った。ノーチェはつい癖で死骸や糞が置かれていないか確認してから、ベッドに横になった。
その日の深夜。ノーチェの叫び声が、屋敷の静寂を切り裂いた。
その声を聞いたアルバ、ヌーベ、ブリッサ、そしてアベリャーナとカカウェテがすぐに彼女の部屋に飛んできた。
「ごめん、なさい、ひっ、やめて、つめた、い、やだ、はっ、ゆる、して」
ノーチェは目を開いていて、何かから逃れるようにばたばたと手足を動かす。その手からは闇の雷がバチバチと走り、周囲の影が不気味に揺れ動いていた。
そんなノーチェを見たアルバは、すぐに「ノーチェ!」と彼女の肩を揺さぶろうとした。
「アルバお坊ちゃま、いけませんよ」
アベリャーナは彼を手で制す。そして、「ノーチェ様。大丈夫ですよ」と優しく声をかけ始めた。荒く途切れ途切れだったノーチェの呼吸は、少しずつ落ち着いていく。しばらくすれば何事もなかったように穏やかな寝息を立てはじめた。
「……落ち着いたようですね」
「お母さん、今のは?」
ほっと息を吐いたアベリャーナに、カカウェテが問いかける。
「おそらく、夜驚症でしょう」
「やきょうしょう?」
四人は首をかしげる。
「夜中に突然叫び出してしまうものですね。子どもに多いものですが……強いストレスで、大人でも起こることがあります」
「……よく知ってるね」
「ノーチェ様は幼少の頃、よく夜泣きをされたり夜驚症になったりしておりましたから。かつては、側妃様と共に奮闘いたしました」
ヌーベの言葉に、アベリャーナは懐かしそうに目を細めながら答える。
「……ぼく、知らなかった……」
アルバは拳を握りしめ、静かに肩を落とす。その拳は震えていた。力を込めても、どうにもならないものがあるみたいに。
「ねえ、アベリャーナ。ノーチェのそばにいて大丈夫かな」
「ええ。おそばにいてあげてください」
アベリャーナが微笑んだ瞬間、ノーチェは小さく「……アルバ」と呟いた。
「ほら、お坊ちゃまをお呼びですよ」
「そうだね。……ノーチェ、ここにいるよ」
「……うん」
ノーチェは安心したように表情を緩める。アルバはその漆黒の髪を、優しく撫で続けた。
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