第13話 自由な空(シエロ)に
ノーチェとアルバがパイ菓子を食べ終わったあと。ヌーベは「落ち着いたところで、書類にサインしてくれるかな」と微笑む。
「あ、えっと。はい……」
「大丈夫だよ。ぼくも一緒に行くからね」
アルバは笑ってノーチェの手を引き、書斎まで案内した。
重厚な書斎の机に、さらりとした白い書類が置かれている。ディーア王国の婚姻誓約書だ。
「先にぼくが書くね」
アルバはそう言って羽ペンを持つ。さらさらと旧姓の欄に『アルバ・ディーア』、そしてその隣に『アルバ・シエロ』と書いた。
「はい。ノーチェ」
アルバはノーチェの目の前にペンを差し出す。
「……ほんとに、わたしでいいの?」
「ノーチェでいいんじゃないよ。ノーチェがいいんだよ」
アルバはにこにことペンを差し出す。ノーチェは震える手でそっとペンを受け取った。目を閉じて、大きく深呼吸をする。
(ほんとにわたしでいいのかは、まだ分からない。けど……)
アルバの温もりが、重ねられた手から伝わってくる。
(……わたしは、アルバを信じたい)
ゆっくりと目を開く。手が震える。でも、ペンを止めない。紙にペンを滑らせて、一文字一文字書いていく。
旧姓『ノーチェ・ポラール』、新姓『ノーチェ・シエロ』と。
新しい名前を口の奥で静かに繰り返した。まだ慣れない。
――それでも。
動けない北極星じゃない。どこまでも広がる、自由な空だ。
ペンを置く。彼女は無意識に詰めていた息を、ゆっくり吐き出した。
パチ、パチと拍手の音がした。使用人たちが誰からということもなく拍手を始めたのだ。温かい拍手は集まり、連鎖し、書斎を優しく包み込む。ノーチェはそれを、どこか遠い場所から聞こえているように感じた。そんな彼女をよそに、アルバは深緑の瞳を細めて口を開いた。
「これからよろしくね。ノーチェ」
そっと手を重ねられる。それはノーチェよりも大きくて。彼女はようやく息ができたように、静かに息を吐いた。
読んでくださりありがとうございました。評価、いいね、ブックマークをしてくださると励みになります。




