EP 8
合気道幻の十段と、無自覚なる地返し
バァァァンッ!!
真新しい工房の木製ドアが、乱暴な蹴りによって吹き飛ばされた。
泥と硝煙にまみれた帝国軍のザルツ大尉と、その部下である。
「動くな! 貴様は我々の人質だ!! 少しでも妙な真似をすれば、この魔導突撃銃で頭を吹き飛ばすぞ!!」
血走った目で銃口を突きつけるザルツ。
だが、彼らが工房に踏み込んだ瞬間、予想外の『強烈な香り』に思わず動きを止めた。
それは、空間を満たす芳醇で甘い太陽芋の香りと、ツンと鼻を抜ける極上のアルコールの匂いだった。
「……土足で上がり込むのは感心しないな。埃が立つ。酒の香りが落ちるだろう」
工房の中央。
そこには、ハジメが車座になって座っていた。
彼の手には、並々と透明な液体(究極の芋焼酎)が注がれた自作の備前焼のぐい呑み。その視線は、銃を構える二人ではなく、手元の酒の揺らぎに向けられている。
「な、何を呑気なことを! 状況が分かっているのか!? 立て、両手を上げて外に出ろ!」
「……状況、ね」
ハジメは静かにぐい呑みを置き、ため息をついた。
泥だらけの服、派手な装飾の施されたオモチャのような銃。そして、ひどく興奮して荒くなった息遣い。
(……なるほど。最近の若者の間で流行っているという、サバイバルゲームか何かか。それにしても、随分と泥酔しているようだが)
ハジメには、外で起きている凄惨な戦争の気配が微塵も感じられなかった。
無理もない。彼にとっての『殺気』とは、ブラック農家時代に「台風が迫っているのに収穫が終わらない時の絶望感」や、「野生のイノシシとの命がけの死闘」レベルのものであり、こんなチンピラ崩れの若者(とハジメは勘違いしている)が放つ薄っぺらい敵意など、そよ風にも等しかったのだ。
「おい、聞いてるのか! 殺すぞ!」
ザルツの指示を受け、焦った部下の兵士がハジメの胸ぐらを掴もうと飛びかかった。
「……やれやれ。酔っ払いの相手は、夜の街だけにしてほしいものだ」
ハジメは、座ったまま(座技の姿勢で)スッと半歩だけ膝をずらした。
兵士の伸ばした手が、ハジメの胸ぐらを掠める。
その瞬間、ハジメは兵士の手首に下からそっと手を添え、ふわりと円を描くように導いた。
――合気道・幻の十段『円月流・地返し』。
力は一切使っていない。兵士自身の「前に飛び込む運動エネルギー」に、ハジメがほんのわずかな「回転のベクトル(氣)」を上乗せしただけだ。
「えっ……?」
兵士は、自分が何をされたのか全く理解できなかった。
気づいた時には視界が天地逆転し、そのまま背中から工房の木の床へと、吸い込まれるように叩きつけられていたのだ。
ドスゥゥゥンッ!!
激しい衝撃とともに、兵士は一瞬で意識を刈り取られ、白目を剥いて沈黙した。
「なっ……!? き、貴様、魔法か!? スキルを使ったのか!?」
ザルツが驚愕に目を見開く。
「……ただの受け身の失敗だ。若いのに足腰が弱いな」
ハジメはゆっくりと立ち上がった。
その威圧感のない、あまりにも自然体すぎる動きに、ザルツは本能的な恐怖を覚えた。魔力も闘気も感じない。それなのに、目の前の男が底知れない巨大なブラックホールのように思えたのだ。
「ヒィッ! 撃て! 撃ち殺せェ!!」
恐怖に駆られたザルツが、魔導突撃銃の引き金を乱暴に引く。
青白い魔力弾が放たれようとした、その刹那。
「危ないオモチャだ。暴発すると怪我をするぞ」
ハジメは首に巻いていた『手ぬぐい(汗拭き用)』を、ピシッと鞭のように弾いた。
手ぬぐいの先端が、まるで意思を持っているかのように魔導突撃銃の銃身に巻き付く。
ハジメが手首を軽くスナップさせると、てこの原理と氣の力が伝達され、ザルツの手からいとも容易く銃が弾き飛ばされた。
「ああっ!? 私の銃が!」
「ほら、寝てろ」
銃を奪われて前のめりに体勢を崩したザルツの顎に、ハジメは手のひらを添え、優しく床へと撫で下ろした。
コツン。
ザルツの顔面が床に触れた瞬間、脳が激しく揺らされ、帝国軍のエリート大尉は「あばばっ」と情けない声を上げて完全に気絶した。
静寂が戻った工房。
ハジメは手ぬぐいを拾い上げてパンパンと埃を払うと、再び首に巻き直した。
「まったく。酒を飲むなら、もう少し落ち着いて飲みたいものだ」
ハジメは部屋の隅から、野菜の収穫用に置いてあった麻縄を取り出した。
そして、気絶した二人をまるで『出荷前の月見大根』でも縛るかのように、見事な手際(亀甲縛りに近い農業用結び)でギュウギュウに縛り上げた。
「よし。これで暴れることもないだろう」
ハジメが二人を工房の外に転がし、胸ポケットからブックマッチを取り出してキャスターに火をつけた、ちょうどその時だった。
「ハジメ!! 無事か!?」
「ハジメさん、大丈夫ですか!?」
血相を変えたキャルルとダイヤ、そして眉間に皺を寄せた龍魔呂が、工房の前に駆けつけてきた。
彼らは外の残存兵を片付けた後、ザルツたちが工房に向かったことに気づき、顔面蒼白で戻ってきたのだ。
「おお、お前たちか。ちょうどいいところに来た」
ハジメは紫煙を吐き出しながら、足元に転がした『亀甲縛りにされた帝国兵』を顎でしゃくった。
「お前たちの遊び仲間か? 随分と泥酔して、物騒なオモチャを持って押し入ってきたぞ。怪我をすると危ないから、少しキツめに縛っておいた。水でも飲ませて、酔いを覚ましてやれ」
「「「…………は?」」」
キャルルたちは、足元に転がるザルツたちを見て絶句した。
外傷は一切ない。しかし、完全に無力化され、屈辱的な姿で転がされている。
ルナミス帝国軍の精鋭部隊の隊長が、剣も魔法も持たないただの農民に、一瞬で制圧されたというのか。
「……ハジメ。お前、こいつらが帝国軍だと分かって……?」
龍魔呂が呆れたような、しかし戦慄を隠せない声で問う。
「帝国軍? なんだそれは。どこかのサバイバルゲームのチーム名か? まぁいい、そんなことより――」
ハジメは振り返り、工房の中から自作の備前焼のぐい呑みとお銚子、そして漬物の入ったタッパーを取り出した。
「究極の芋酒と、漬物が仕上がった。ちょうど月も綺麗だ。……飲むぞ」
ハジメは真顔のまま、25歳とは思えない激渋なオーラでそう宣言した。
その場にいた最強のバケモノ三人は、顔を見合わせた後、思わず肩の力を抜いて吹き出した。
ポポロ村の絶対防衛線。その中心にいるのは、紛れもなくこの「規格外に鈍感で、最強の農民」なのだと、全員が確信した瞬間だった。




