第44話 鼻が、覗いた
帰れないアラフォーパパが、異世界で魔物を焼いています。
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帰れる、と分かったのは昨日のことだ。
今朝、目が覚めたら炊事場に来ていた。
理由は分からない。腹が減っていた。それだけだ。
包丁を握った。
帰れる。帰れるのに、今朝も包丁を握っている。
それがおかしいとは思わなかった。
おかしいかどうかを考える前に、手が動いていた。
異世界に来てから、ずっとそうだった。
◆ 炊事場・朝
ヴォルガの薄切りを三枚、まな板に並べた。
脂身の帯が、前に切ったものとは少し違う。層が厚い。
断面を確認する。繊維の走り方も変わっている。同じ種類でも個体差がある。
異世界に来てから、こういうことが少しずつ分かるようになった。
ヨーヘイ:「固くなるやつか」
解析:「昨日と同じ個体ではありません。脂身の割合が増加しています。熱を通す時間を短くすれば口当たりは改善されます」
ヨーヘイ:「何秒くらい」
解析:「試した範囲で言えば、二十秒から二十五秒です」
ヨーヘイ:「試したのか」
解析:「……業務の範囲内です」
ヨーヘイ内心:(この人、いつ試したんだ)
包丁の角度を少し変えた。繊維を断ち切る方向に。
薄く、一定の厚さで。均等に切れている時、手の感覚だけで分かる。
そういうことが、少しずつ増えてきた。
フィン:「キュッ」
足元で鳴いた。目は炊事場の入口を向いたままだ。
ヨーヘイ:「腹が減ったのか」
フィン:「キューン」
違う、という鳴き声だった。
食欲の「キューン」とは少し質が違う。甘えているわけでもない。
耳が扉に向いたまま、首だけがこちらを向いた。
ヨーヘイは包丁を置いた。
ヨーヘイ:「何かいるか」
フィンは動かなかった。
耳だけが、扉の方向に向いたまま、ぴたりと止まっていた。
◆ 鼻が、覗いた
扉が、少しだけ開いた。
鼻が、覗いた。
──狐の鼻だ。
小さくて、先端が少し濡れている。ひくひくと動いている。
入るかどうか迷っている、という動きだった。
ヨーヘイ:「……入りますか」
全身が、入ってきた。
狐耳。茶色と白のまだら。くせっ毛の明るい茶色の髪。
ローブは胸元がきつそうで、それに本人は気づいていない様子だった。
尻尾が、扉の陰から恐る恐る出てきた。
背丈はリリアよりすこし高い。でも体型のせいか、実際より小さく見えた。
炊事場の匂いに気づいたのか、鼻がひくついた。
耳が少し動いた。警戒ではなく、好奇心の方の動きだった。
ヨーヘイ内心:(狐獣人だ。耳が本物だ。尻尾も本物だ。
リリさんとサーラさんとフィン。
俺の周りはなんでこんなことになっているんだ)
声が来た。
解析:「……狐獣人。火属性魔法適性あり。現在の魔力残量──」
一拍、間があった。
解析:「かなり少ない」
ヨーヘイ内心:(言いかけて、止めた。今)
狐獣人は、ヨーヘイとフィンを交互に見た。
フィンは尻尾を一度、ゆっくり振った。
狐獣人:「気軽にルカっちって呼んでやぁ! 堅苦しいのあかんねん」
ヨーヘイ:「……ヨーヘイです」
ルカ:「知ってる。ギルドで聞いた」
ヨーヘイ内心:(聞いてたのか)
◆ 一切れ
鉄板に火を入れた。
昨日の残りのヴォルガ肉を一切れ、乗せた。
脂が溶け始めると、甘い匂いが炊事場に広がった。
二十秒。引き上げる。少し色が変わっている。皿に乗せてルカの前に置いた。
横でリリアが「……いい匂いです」と言った。
ヨーヘイ:「昨日の残りなのでリリさんは後で」
リリア:「……はい」
ルカはリリアとヨーヘイを交互に見た。
ルカ:「この人、いつもこうなん?」
リリア:「……はい」
ルカ:「なんか、すごいな」
耳が片方だけ動いた。関心ではなく、困惑の方の動き方だった。
それからルカは皿の肉を少し間を置いてから、口に入れた。
目が、止まった。
ルカ:「……なにこれ」
ヨーヘイ:「ヴォルガという魔物の肉です。脂身が多い部位」
ルカ:「めっちゃうまいやん。反則ちゃう?」
耳が立った。尻尾がふくらんだ。
本人は気づいていなかった。
リリア:「……そうなんです。いつもそうなんです」
ルカ:「え、リリちゃんも食べたん?」
リリア:「……毎日食べています」
ルカ:「毎日!?」
リリア:「……はい。ヨーヘイさんが作るので」
ルカがヨーヘイを見た。
ルカ:「この人、何者なん」
ヨーヘイ:「冒険者です」
ルカ:「そっちか」
フィンがルカの方を見た。
同じ目、だった。
初めて肉をもらった時の、あの目と同じだった。
ヨーヘイ内心:(フィンと同じ目をしている)
その時、手元で何かが跳ねた気がした。
スキルの熟練度、という感触がある。
ヨーヘイ:「解析さん、今、《料理》上がりましたか」
解析:「……業務の範囲内です」
点が、増えた気がした。
ヨーヘイ:「解析さん、今、点が多くなかったですか」
解析:「気のせいです」
ヨーヘイ内心:(気のせいじゃない。でも今は追わない)
ルカはその会話を聞いて首を傾げた。
ルカ:「なんか、声みたいなん聞こえてへん?」
ヨーヘイ:「……気のせいじゃないですか」
ルカ:「絶対気のせいちゃうで」
ヨーヘイ内心:(バレかけている)
◆ 交渉
ルカが姿勢を正した。
さっきまでの「うまいやん」という顔が、少し変わった。
ルカ:「探してるもんがある」
素材の名前を言った。
聞いたことがない名前だった。
声が来た。
解析:「ヨーヘイさんが先週解体した個体の内臓に、近い成分が含まれていました」
ルカ:「……Dグレードを倒せるんか」
ヨーヘイ:「一度だけです。運が良かった」
ルカ:「うそやん。Eランクで?」
ヨーヘイ:「本当です」
リリアが横で小さくうなずいた。
ルカ:「え、この人ほんまに倒したん」
リリア:「……はい。私も一緒にいました」
ルカ:「リリちゃんも!?」
リリア:「……はい」
ルカがしばらく二人を見比べた。
ルカ:「なんか、パーティとしてだいぶおかしくない?」
ヨーヘイ:「おかしいとは思っています」
ルカ:「自分で言うんか」
ヨーヘイ内心:(おかしいとは思っている。でも困っていない)
ルカは少し考えた。耳が動いた。
ルカ:「一緒に行かせてもらえへんか。私、火魔法使えます。燃費は悪いけど」
フィン:「キューン」
返事が早かった。
ヨーヘイ内心:(お前はもう決めているのか)
ヨーヘイ:「明日、また来てもらえますか。少し考えます」
ルカ:「せやな。急に言ってもな」
リリアがルカを見た。
リリア:「……ルカっちさん、でしょうか」
ルカ:「ルカっちでええよ! リリちゃん」
リリア:「……リリちゃん。初めて呼ばれました」
ルカ:「あかんかった?」
リリア:「……いいえ。少し、驚いただけです」
ヨーヘイ内心:(リリさんが驚いている顔をした。珍しい)
内心で一度、整理した。
帰れる。それは本当だ。
でも、Dグレードの内臓を解体できる人間が、今のこの場所にどれだけいるか。
解析さんの言った「近い成分」という言葉が、頭の端に残っていた。
ヨーヘイ内心:(帰れる。でも、それは今日じゃなくてもいい)
◆ ガロンの部屋
換金を済ませた後、ギルドに寄った。
ボルドが素材を受け取りながら、一度だけ目を上げた。
解体場のボルドが素材を受け取りながら、一度だけ目を上げた。「……おう」それだけだった。
それだけだった。
ガロンの部屋に案内された。
ドアを開けた瞬間、背筋が自然と伸びた。
ガロンは椅子に座っていた。立っていた時よりも、なぜか大きく見えた。
ガロン:「来たか」
ヨーヘイ:「また来いと言われたので」
ガロン:「そうだ」
短い沈黙。ガロンがヨーヘイを見た。視線が止まった、という感じがした。
品定めではない。何かを測っている。
ガロン:「動いている。気をつけろ」
ヨーヘイ:「追っ手ですか」
ガロン:「ベルネにいる。急ぎではないが、知っておけ」
ヨーヘイ:「……はい」
ガロン:「急ぎではない、ということは覚えておけ。慌てるな」
それ以上、ガロンは言わなかった。
ヨーヘイも続けなかった。
会話はそこで終わりだった。
それだけで十分だという空気だった。
廊下に出た。
リリアが壁際で待っていた。
リリア:「……何か、ありましたか」
ヨーヘイ:「動いているそうです。ベルネにいる」
リリア:「……そうですか」
それ以上は聞かなかった。
ヨーヘイも続けなかった。
2人と1匹で、ギルドの出口に向かった。
石畳の音が、廊下に響いた。
リリアの足音は静かだった。フィンは音を立てない。
ヨーヘイの靴の音だけが、少し大きかった。
歩きながら、ヨーヘイの頭に一行だけ浮かんだ。
ヨーヘイ内心:(ドンネさんが七輪を作ってくれたら、本当に始められる。
今日、肉を一枚渡した。あれが最初の客になるかもしれない)
◆ 炊事場・夕方
夕方、炊事場に戻ったらルカがいた。
ヨーヘイ:「まだいたんですか」
ルカ:「……いたらあかんか?」
ヨーヘイ:「別に」
リリアが先に宿に戻っていたので、炊事場にはヨーヘイとフィンとルカだけだった。
フィンが「キュッ」と鳴いた。
ルカがフィンを見た。
ルカ:「この子、なんか分かってへん?」
ヨーヘイ:「分かっていると思います」
ルカ:「なんでそう思うん」
ヨーヘイ:「いつもそうなので」
ルカが少し笑った。
耳が、片方だけ傾いた。
ルカ:「……一緒に来てもらえたとして、ちゃんと使い物になれるか分からへんねん。魔力が最近うまく出えへくて」
ヨーヘイ:「解析さん」
解析:「魔力残量の問題です。休息と栄養を取れば改善する可能性があります」
ルカ:「……また声がした」
ヨーヘイ:「気のせいです」
ルカ:「絶対気のせいちゃうで」
ルカが小さく息を吐いた。
ルカ:「まあ、ええわ。明日また来る」
帰り際、扉の前でルカが立ち止まった。
振り返らずに言った。
ルカ:「……あの肉、また食わせてや。お願い」
耳が伏せた。
尻尾がふくらんでいた。
ヨーヘイ:「ええですよ」
扉が閉まった。
フィンが、その扉を、まだ見ていた。
しばらく、動かなかった。
それから「キュッ」と、小さく鳴いた。
ヨーヘイは何も言わなかった。
炊事場に、肉の匂いだけが残った。
外から、ベルネの夕方の音が聞こえた。
帰れるのに、今日もここにいた。
それで、よかった。
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【第44話 リザルト&ステータス】
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▼ ヨーヘイのステータス(本話終了時点)
Lv:20 HP:350/350 MP:165/165
スキル熟練度(本話で動いたものだけ記載):
・《料理》Lv2 43/100(+1)
・その他:変動なし
▼ 本話の収支
・収入:換金分(前話からの持ち越し精算)
・支出:なし
・本話終了時手持ち:1,033枚(換金含む・詳細次話確定)
▼ 収納アイテム(前話からの変動分のみ)
・変動なし:前話からの持ち物は変わらず
▼ 本話の出来事
・炊事場に狐獣人が来た。名前はルカ。肉を一切れ渡したら耳と尻尾が全部バレた。
・解析さんの「点が増えた」件は、まだ誰も答えを出していない。
・ガロンが「動いている」と言った。ベルネにいる、と。
・帰り際、ルカは振り返らずに頼んだ。フィンは扉が閉まった後もそこを見ていた。
▼ ヨーヘイの考察
解析さん、記録します。
今日、炊事場に狐獣人が来ました。名前はルカっちというそうです。肉を一切れ渡したら「反則」と言われました。うまいと思ってもらえたのは素直に嬉しいです。
《料理》の熟練度が上がった気がします。解析さんに聞いたら「気のせいです」と言われました。点が増えていた件については保留します。
帰り際、フィンが扉を見ていました。食欲でも警戒でもない目でした。あいつが何を考えているのか、まだ全部は分かりません。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
評価・ブックマーク・感想、どんな形でも嬉しいです。
次話もヨーヘイと解析さん(とフィン)にお付き合いください。




