第14話−1 十二日目の朝、解毒薬を買う
◆ 朝
目が覚めた瞬間に窓の外を確認すると、通りに人影はなかった。昨夜の足音が頭の底に残っているが、今朝は静かだ。朝の光が薄く差し込んでいる。
ヨーヘイ:「来なかった。今朝は来なかった。それだけ分かれば十分だ」
声に出すと、少し頭が整理される。今日やることをやる。それだけだ。
右足に体重をかけてみると、12日目にして違和感がほぼなかった。完全ではないが、もう庇わずに歩ける。
ヨーヘイ:「……だいぶ戻ってきた」
階下に降りると、サーラが帳場で台帳を開いていた。
フィンがテーブルに飛び乗って、サーラの正面に座る。金色の目で見上げる。
サーラが台帳から顔を上げないまま、棚から端切れを出してフィンの前に置いた。フィンがくわえると、尾がぱたぱたと揺れ始める。
ヨーヘイ:(フィンが何もしていないのに、先に出た。……完全に折れた。フィン、お前は交渉の天才だ。外資系の営業研修でこいつを講師に呼びたい)
サーラ(女将):「……何か言いたそうな顔してるね、あんたは」
ヨーヘイ:「いえ、何も」
リリアが階段を降りてくる。昨夜より顔が明るい。昨夜「行きません」と言った人の顔だ。決めた後の顔というのは、こんな顔をしている。
ヨーヘイ:(一晩でここまで整理できる人だ。……強い)
朝食を食べながら、切り出す。
ヨーヘイ:「今日はラルフさんに寄ってから北縁に行きます。解毒薬を買っておきたいので」
リリア:「……解毒薬」
ヨーヘイ:「ずっと後回しになっていたやつです。リリさんが来た頃から、手持ちが足りなくて。今日がやっとチャンスです」
リリア:「……ずっと、ですか」
リリアが少し目を丸くした。そんなに長かったんだ、という顔だ。
リリア:「……ごめんなさい」
ヨーヘイ:「謝らなくていいです。リリさんがいるから稼ぐ理由が増えた、それだけです」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
ヨーヘイ:(44歳がこういうことを言うと、くさいな。でも本当のことだからしょうがない)
リリアが小さく俯いた。耳が少し赤い。
サーラ(女将):「稼いでおいで。謝るより先に」
ヨーヘイ:「……はい」
◆ ラルフ
道具屋の扉を開けた。
ラルフが奥から出てきた。ヨーヘイを見て、次にリリアを見て——頬が赤くなった。
ヨーヘイ:(4回目だ。4回連続で0.3秒だ。3回目で「もしかして慣れてきたかも」と思ったが、全然慣れていない。……これはもう体質だ。ラルフさんとリリさんが同じ空間にいる限り、永遠に0.3秒だ)
ラルフ(道具屋):「いらっしゃいませ。今日は——」
ヨーヘイ:「解毒薬を1本お願いします。取り置きをしていただいていた分です」
ラルフ(道具屋):「はい、ございます」
ラルフが棚から小さな瓶を持ってきて、カウンターに置いた。栓が蝋で封じてあり、受け取ると思っていたより軽かった。25枚。
ヨーヘイ:「……やっと買えた」
思わず声に出てしまった。
ラルフ(道具屋):「そんなに待っていたんですか」
ヨーヘイ:「ずっと後回しになっていて。これで毒系のいるエリアにも踏み込めます」
ラルフ(道具屋):「北縁に行かれているんですよね。あちらは地形が入り組んでいて、カゲダケやツキシロソウが——あの、すみません、聞かれてもいないのに話し始めてしまって」
ヨーヘイ:「聞かせてください。全部」
ラルフの目が光った。
ラルフ(道具屋):「北縁の東側の窪地に、ツキシロソウが出るポイントがあるんです。根の採取には装備が要りますが、葉だけでも薬効が高くて——あ、もうご存知でしたか」
ヨーヘイ:「先日、フィンが見つけてくれました」
ラルフ(道具屋):「やっぱり……この子の鼻は本当に」
ラルフがフィンを見た。フィンは棚の間を歩き回りながら鼻をひくひくさせて、ポーションの瓶が並ぶ棚に近づいていった。
くんくん、と嗅いで——
フィン:「キュッ」
くしゃみをして、棚から飛び降りた。
ラルフ(道具屋):「あっ、大丈夫ですか。その棚は薬品系で、匂いがきつくて——」
リリア:「……くしゃみするんですね、フィンは」
ヨーヘイ:(そこに反応するんですね、リリさん。でも分かる。俺も最初は驚いた)
フィンが気を取り直すように鼻を振って、今度は別の棚の探索を始めた。
ラルフが少し間を置いて、フィンを眺めながら何かを思い出すような顔をした。
ラルフ(道具屋):「……以前の職場で、珍しい従魔を連れた方がいました。その方の従魔も、こんなふうに鼻が利いて——」
止まった。
ラルフ(道具屋):「……いえ、すみません。関係ない話でした」
ヨーヘイ:(「以前の職場」。前にも同じところで止めた。ラルフさんが道具屋を開く前に何かある。俺も「遠いところから来た」としか言えない事情がある。お互い、話せる日が来るかもしれない。……来るといいな、と思う)
ヨーヘイ:「ありがとうございます。また来ます」
ラルフ(道具屋):「……お気をつけて。本当に、お気をつけて」
扉を閉める直前、いつもより声が小さかった。
◆ 北縁
北縁に入ると、昨日より体の動きが軽かった。
Lv4になってから、こういう日がある。体が覚えたことがある日、突然こなれてくる。外資系でも同じだった。何度も繰り返したプレゼンが、ある日突然「型」になる。今日はそういう日だ。
ヨーヘイ:(解析さん、この辺りの反応は)
解析の声:「ホーンラビットの反応が5つ。北東80メートル、東110メートル、北北東140メートル、東南東160メートル、北200メートルです。昨日より分散しています」
ヨーヘイ:(分散している。一体ずつ確実に取れる。今日は流れよく行けそうだ)
フィンが先行して採取ポイントを嗅ぎ分け、リリアが後方と側面を見て、ヨーヘイが前を取る。言葉が少なくなってきた。3日続けると、必要なことしか言わなくなる。
1体目。フィンが丘の裏側で止まる。「キュッ」と短く鳴く。ヨーヘイが回り込んで踏み込む。一撃。
2体目に向かう途中、リリアが「左の草むらから」と声を上げた。振り返ると、草の陰から角が見えた。前日より半拍早い声だ。回避して仕留める。
ヨーヘイ:(昨日より早い。日に日に早くなっている。最初は「後ろから来ます!」と言ってからワンテンポあった。今は言いながらもう動いている)
3体目はフィンが突進の予備動作を察知して「キュウッ!」と鳴いた。ヨーヘイが左に跳んで、背面から仕留める。
4体目、5体目。淡々とこなした。北縁の地形が頭に入ってきている。どこに出るか、だいたい分かるようになってきた。
解析の声:「ホーンラビット5体討伐完了。依頼達成条件を満たしています」
ヨーヘイ:(今日は手こずらなかった。北縁が体に馴染んできた)
5体目を仕留えた後、包丁を出して解体に入った。
首の付け根の奥、硬い組織に守られた魔石を慎重にこじり出す。今日のものは少し大きい。内臓も回収した。レバーとハツが揃った。
ヨーヘイ:「……今日のハツ、張りがいい。昨日より鮮度がいいかもしれない。夜、何か作ろう」
リリア:「……また内臓ですか」
ヨーヘイ:「また内臓です。昨夜食べてみてどうでしたか、改めて」
リリア:「……おいしかったです。次は、もう少したくさん食べたいです」
ヨーヘイ:(昨夜「おいしい」と言った人が、今日は「もう少したくさん」と言った。あの時サーラさんが「悪くないね」になった時と同じ感覚だ。一口が二口になる。それが全部の始まりだ)
フィンが採取モードに切り替わって、鼻を地面スレスレにしながら動き始めた。カイフクソウ10束、カゲダケ3束。昨日のルートより少し奥まで入った。
解析の声:「《採取》熟練度が37/100に上昇しました」
ヨーヘイ:(着実に上がっている。……Lv2まであと63か。まだ遠いな。でも上がっている)
採取していると、リリアが手を止めた。
リリア:「……レンさん」
ヨーヘイ:「はい」
リリア:「……昨日、言えてよかったです」
草地の風が来た。リリアの金髪が揺れた。ヨーヘイは手を止めずに草を束ねながら、リリアの声を聞いていた。
リリア:「……ずっと逃げてきました。追われるたびに、次の場所へ。いつか追いつかれると思っていました。でも昨日は、逃げませんでした。……怖かったですが」
ヨーヘイ:「怖くて当然です。俺も怖かったです」
リリア:「……レンさんが、ですか」
ヨーヘイ:「扉を開ける前に、少しだけ手が止まりました。でも後ろにリリさんがいたので。動けました」
リリアが採取へらを持ったまま、空を見上げていた。それから、静かに言った。
リリア:「……お互い様、ですね」
ヨーヘイ:「お互い様です」
フィンが二人の間を歩き回って、「キュッ」と鳴いた。草束を運びたいのか、ヨーヘイの手元を覗き込んでいる。
ヨーヘイ:(お前も仕事をしたいのか。……しょうがないな、手伝ってもらうか)
フィン:「キュッ」
ヨーヘイ:(返事が早い。分かってたのか)
帰る前に、ヨーヘイはもう一つ確認しておいた。
ヨーヘイ:(解析さん。ヤキボアは北縁に出ますか)
解析の声:「ヤキボアの出没域は東縁の奥が主です。北縁では稀です」
ヨーヘイ:(東縁は当面避けたい。追っ手に活動パターンを読まれる可能性がある。どこかで東縁に戻るタイミングを作る必要がある。……急がなくていい。順番をつけていく)
◆ 帰路
北縁を抜けて草地に出た瞬間、木立の切れ目から空が広がり——それは来た。
一拍だけ、全身が止まる感覚があった。重くなったのとは違う。体の芯から何かが満ちてくるような、あの感覚だ。
解析の声:「レベルアップです。Lv3からLv4に到達しました。HP上限が118から135に上昇しました。MPが52から60に上昇しました。新スキル《瞬歩》Lv1を取得しました」
ヨーヘイ:「……今か」
解析の声:「短時間、移動速度を最大1.5倍に引き上げます。MP3を消費します。発動時間は3秒です」
ヨーヘイ:(3秒。たった3秒だが、戦闘の3秒は別物だ。外資系のプレゼンで言えば「つかみの3秒」。そこで全部が決まる。……使いどころを間違えるな、ということだ)
右足に体重をかけると、ずっと庇い続けていたその足が、今は地面をまっすぐ踏んでいた。あの転落以来ずっとどこかに引っかかっていたものが、跡形もなく消えている。
蓮が生まれた日のことを、唐突に思い出した。
病院の廊下で美咲の「生まれたよ」という声を聞いた瞬間、体の中で何かが満ちて足が地面をしっかり踏んでいる感覚があった。何かが変わった、という実感。名前をつけるには言葉が足りなかったが、確かにそこにあったもの。今日と、よく似ている。
ヨーヘイ:「……強くなった。ちゃんと、強くなった」
リリア:「……レンさん?」
ヨーヘイ:「少し、体が変わった感じがします。大丈夫です。行きましょう」
フィンが肩に乗ってきた。いつもと同じ重さのはずなのに、今日は少し軽く感じる。体が変わったからかもしれない。
◆ 換金・帰宿
ギルドで換金を済ませると、G魔石×5で45枚・カイフクソウ10束で20枚・カゲダケ3束で6枚、手数料差し引き後で合計66枚になった。
ミナ(受付):「今日は北縁ですか」
ヨーヘイ:「はい」
ミナが台帳に記録しながら、一言だけ加えた。
ミナ(受付):「……ご報告は、特に変わりはないです」
ヨーヘイ:(追っ手の動きに変化なし、という意味だ。この人は言葉の裏に全部を込める)
ヨーヘイ:「ありがとうございます」
ミナ(受付):「明日も、来てください」
その一言の重さを、ヨーヘイは静かに受け取った。
宿代を払うと手持ちが27枚になった。
ヨーヘイ:(また薄くなった。でも解毒薬がある。Lv4になった。《瞬歩》を取った。今夜はレバーとハツを焼く。リリさんが食べてみると言った。前に進んでいる)
夕暮れの通りを歩きながら、ヨーヘイは路地の奥を一度だけ見た。人影はなく、夕暮れの光だけが石畳を染めている。それでも——どこかにいるかもしれない、という感覚が、足の裏からじわりと上がってきた。今夜か、明日か。来ると分かっているなら、備えるだけだ。
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【第14話−1 リザルト&ステータス】
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▼ ヨーヘイのステータス(14-1終了時点)
Lv:4 HP:135/135 MP:60/60
スキル熟練度:
・《解析》Lv1 熟練度 62/100(+1)
・《収納》Lv1 熟練度 22/100(+1)
・《採取》Lv1 熟練度 37/100(+2)
・《解体》Lv1 熟練度 23/100(+2)
・《料理》Lv1 熟練度 7/100
・《従魔契約》Lv1 熟練度 5/100
・★《瞬歩》Lv1 熟練度 1/100(NEW)
▼ 本話の収支
・解毒薬購入:▲25枚
・依頼報酬(手数料後):+66枚
・宿代:▲60枚
・手持ち:27枚
・解毒薬×1:保持
・ポーション×1:保持
▼ インベントリ
・短剣×1 / 包丁×1 / 採取へら×1
・冒険者証(Gランク・探索者)
・ポーション×1
・★解毒薬×1(NEW)
・ホーンラビットのレバー×5(今夜調理予定)
・ホーンラビットのハツ×5(今夜調理予定)
▼ 新情報
・北東220m:人間の反応1つ確認
・フィンが鳴かない緊張(2回目)
・Lv4到達・《瞬歩》Lv1取得
・右足の違和感:完全消滅
・リリアが内臓料理を食べると言った(今夜調理予定)
▼ ヨーヘイの考察
解析さん、記録します。
解毒薬を買いました。ずっと後回しになっていたやつです。25枚でこんなに安心するとは思っていませんでした。持っているだけで、踏み込める場所が増える気がします。
北縁で5体討伐しました。北東220メートルに人間の反応が出たので5体で切り上げました。フィンが鳴きませんでした。昨夜と同じ顔でした。
帰り道でLv4になりました。《瞬歩》を取得しました。3秒で1.5倍です。右足の違和感もなくなりました。蓮が生まれた日のことを思い出しました。あの日も、こういう感覚がありました。
ラルフさんが「以前の職場で」と言いかけて止めました。2回目です。いつか話せる日が来るといいと思っています。
今夜、レバーとハツを焼きます。リリさんが「食べてみます」と言ってくれました。楽しみです。
以上、記録終わり。
【第14話-1】十二日目の朝、解毒薬を買う
解毒薬をやっと買えた回です。
「次からは先に買っておく」というヨーヘイの学習が、ここで完成しました。リリアが初めて内臓料理を食べる場面も、この話に入っています。




