第12話−2 はじまりの名前 ― リリア・ノクス
◆ ギルド
ギルドの扉を開けると、ミナがカウンターで書き物をしている。
顔を上げた瞬間、ヨーヘイ、リリア、肩の上のフィンを順番に見て——ペンを置いた。
ミナ(受付):「おはようございます。今日は——登録ですか?」
ヨーヘイ:「はい。リリさんの登録をお願いします」
ミナがカウンターの下から用紙を出した。羽ペン、インク壺。ヨーヘイが初めて見た時と同じ一式だ。
リリアがカウンターの前に立った。
ヨーヘイは少し離れた位置にいた。掲示板がちょうど視界に入る。いつもの依頼用紙に混じって、1枚だけ紙の色が違う。灰色がかった厚手の紙に、太い文字が見えた。「ダンジョン調査——」
ヨーヘイ:(ダンジョン。……今は関係ない。でも覚えておこう)
フィンがヨーヘイの肩から降りて、カウンターの上に飛び乗った。ミナの前にちょこんと座って、金色の目で見上げる。
尾が、ゆっくり揺れ始めた。
ミナ(受付):「……フィンちゃん、ですよね。覚えてますよ」
ミナの声がいつもより半音高い。仕事の笑顔ではなく、本当に嬉しそうな顔だ。
フィンの尾がさらに速く揺れた。前足をカウンターの上でとんとんと踏んでいる。
ヨーヘイ:(お前、何をやっている。それはもう営業だ。初対面で名前を覚えてもらって、2回目で愛想を振りまいて、信頼を獲得する。外資系の営業研修で教わるやつだ。……やめろ、俺より上手いじゃないか)
リリアが用紙を前にして、羽ペンを取った。
名前欄が、白い。
ヨーヘイ:(解析さん。リリさんが本名で登録した場合、情報が外に漏れるリスクはありますか)
解析の声:「ギルドの登録情報は原則非公開です。ただし、正式な機関からの照会には応じる規定があります」
ヨーヘイ:(正式な機関か。追っ手がそういう後ろ盾を持っていたら、調べられるってことだ。……でも、これはリリさんが決めることだ)
ヨーヘイ:「リリさん」
リリア:「……はい」
ヨーヘイ:「名前は——本名でいいですか。事情を考えると、別の名前にすることもできます」
リリアの手が、羽ペンの上で止まった。
5秒。
リリア:「……この名前は、お母さんがつけてくれました」
声が小さい。でも、揺れてはいない。
リリア:「……本名で、書きます。この名前で、始めたいので」
羽ペンが紙に降りる。
ゆっくりと、丁寧に、一画ずつ。小さな字だった。力を入れすぎず、かといって薄くもない。紙の上を走るペンの音だけが、カウンターの周りに聞こえた。
リリア・ノクス。
ヨーヘイ:(ここに立ったことがある。あの日、俺はこの紙の前で「ヨーヘイ・レン」と書いた。蓮から苗字を借りた。本人には絶対に言えないけど、あの名前が俺の異世界の始まりだった)
ヨーヘイ:(リリさんは、借りていない。お母さんがつけてくれた名前を、そのまま書いた。同じペンと紙なのに、重さが違う)
出身地の欄で、リリアのペンが少し迷う。ヨーヘイを見る。ヨーヘイが小さく頷く。
リリアが書いた。「遠方の村」。
ヨーヘイ:(同じだ。俺が書いたのと、一字一句同じ。「遠方の村」。異世界の出身地欄における万能フレーズかもしれない。真実だし嘘でもないし、聞かれてもそれ以上答えなくていい。……便利すぎて少し申し訳なくなるな)
二人の目が一瞬だけ合って、どちらも何も言わなかった。
ミナ(受付):「ありがとうございます。クラスはいかがしますか? 探索者と戦闘職がございますが」
リリア:「……探索者で」
ミナ(受付):「かしこまりました。登録料は銅貨30枚になりますが——」
ヨーヘイ:「初回の依頼の換金から差し引くことはできますか」
ミナのペンが一拍止まった。目がヨーヘイを見る。あの日と同じだ。初めてこのカウンターに立った朝、同じ言葉を言った。ミナは覚えている。
ミナ(受付):「……はい。可能です」
声が少し柔らかかった。
カードが出てきた。鉄製で角が丸く、表面が磨きあげてある。
リリア・ノクス Gランク 探索者
リリアが受け取った。両手で。指が、カードの表面をなぞった。文字の上を、ゆっくりと。
リリア:「……私の名前が、ここにあります」
声が小さい。でも、震えてはいなかった。
◆ 通り
ギルドを出ると、朝の通りはまだ人が少ない。
ヨーヘイ:(サーラさんの言う通りだ。朝のうちに動いて正解だった)
ラルフの店の方角から宿に戻る道を歩いている。リリアが半歩後ろにいて、フィンがヨーヘイの肩に乗っている。
通りの向こう側に、人影があった。
二人組の若い男だった。旅装で、村の人間ではない。肉屋のあたりで立ち止まって、店主に何か話しかけている。
ヨーヘイ:(あれだ)
サーラが昨夜言っていた。若い男が二人、若い女の旅人を探している、と。
フィンの体が変わった。肩の上で低くなる。耳がぴんと前を向いた。鼻がわずかに動いている。ヨーヘイの肩から降りて、地面に着地した。四肢を低くして、通りの向こうを見ている。
ヨーヘイ:(フィン、何を感じてるんだ。匂いか。あいつらの匂いに何かあるのか——)
リリアの足が止まった。
体が硬くなっている。顔が白い。
でも——
リリアの右手がポケットに入った。指が何かを握りしめている。さっき受け取ったばかりの、あのカードだ。
ヨーヘイは声を落とした。
ヨーヘイ:「リリさん。こっちを見てないです。普通に歩きましょう」
リリアが頷いた。小さく。足が動いた。
二人組は肉屋から離れて、市場の方向に歩いていく。こちらに目を向けていない。
すれ違ってもいない。距離がある。でも、空気が変わったのは確かだ。
宿に向かう道で、リリアが口を開いた。
リリア:「……怖かったです」
ヨーヘイ:「……はい」
リリア:「……でも、歩けました」
ヨーヘイ:「歩けました。それが全部です」
◆ 夜
宿に戻ると、サーラが帳場にいた。ヨーヘイを見て、次にリリアを見た。台帳のペンが一瞬だけ止まって、また動いた。何も言わない。
リリアが2階に上がる前に、階段の途中で振り返った。
リリア:「……レンさん」
ヨーヘイ:「はい」
リリア:「……明日、一緒に行ってもいいですか」
前に同じ言葉を聞いた。あの朝、出かける前に「一緒に行きます」と言われて、「行けないんです」と断った。ギルドに登録していないと同行できないから。
でも今日、リリアの手の中にはカードがある。
ヨーヘイ:「もちろんです。最初からそのつもりです」
リリアが笑った。小さく。口の端が上がるだけだった。でも、目の奥にあった硬い光がほんの少しだけ緩んでいるのが見えた。
リリア:「……おやすみなさい」
扉が閉まる。
フィンが階段を途中まで上がりかけて、ヨーヘイを振り返った。
ヨーヘイ:「行っていいぞ」
フィンがリリアの後を追って、2階に上がっていった。尾が階段の角を曲がる最後まで揺れていた。
ヨーヘイはテーブルに座った。一人だ。
水を一杯注いで、飲んだ。窓の外が暗い。
収納から包丁を出した。布を開く。鋼の刃が、ランプの灯りを受けて光った。
ヨーヘイ:「……明日、これを使う」
手の中で重さを確かめた。重心が刃にあるのが分かる。短剣とは違う。これは食べ物を作るための道具だ。
ヨーヘイ:「蓮。パパ、包丁買ったぞ。こっちのお金で、自分で稼いで買った」
ヨーヘイ:「……変な報告だな。でも嬉しいんだよ、これ」
ヨーヘイ:「美咲。明日は三人で行くから。……三人と一匹か。パーティだな。外資系のチームビルディング研修より人数少ないけど」
思わず声に出して笑ってしまった。テーブルに一人きりなのに。
包丁を布に包んで、収納に戻す。
窓の外、通りに人影は見えなかった。
でも——どこかにいるかもしれない。
今夜は、目を閉じよう。
明日のことは、明日決める。
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【第12話−2 リザルト&ステータス】
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▼ ヨーヘイのステータス(12-2終了時点)
Lv:3 HP:95/118(自然回復・右足回復中) MP:52/52
スキル熟練度:変動なし(街中行動のみ)
・《解析》Lv1 熟練度 53/100
・《収納》Lv1 熟練度 18/100
・《採取》Lv1 熟練度 28/100
・《解体》Lv1 熟練度 11/100
・《料理》Lv1 熟練度 3/100
・《従魔契約》Lv1 熟練度 1/100
▼ 本話の収支
・変動なし(12-1で処理済み)
・リリア登録料30枚:初回依頼の換金から差し引き予定
・ラルフ未払い3枚:継続
▼ 収納アイテム
・短剣×1
・包丁×1(ラルフの取り置き品・鋼製)
・採取へら×1
・冒険者証(Gランク・探索者)
・ポーション×1
・ヤキボア・スペアリブ相当(保持)
▼ パートナー
・フィン(従魔契約済み。リリアの部屋で就寝)
▼ リリアの状態
・Gランク・探索者として登録完了(冒険者証所持)
・追っ手を初めて目視。怖かったがギルドカードを握って歩けた
・明日の初依頼に同行確定
▼ ヨーヘイの考察
リリさんへ。今日の報告です。
名前を書いた瞬間の顔、見てましたよ。ペンが紙に降りる直前の一瞬、少しだけ目を閉じましたよね。開いた時には、もう迷っていなかった。
字が綺麗でしたね。力を入れすぎない字。丁寧な人だなと思いました。
通りで足が止まりかけた時、ポケットに手を入れてましたよね。カードを握ってたんでしょう。分かります。俺も最初の日、カードをずっと触ってました。「本物になった」って何度も確かめたくなるんですよ。
明日は2人と1匹で行きます。
【第12話-2】はじまりの名前 ― リリア・ノクス
リリアがギルドに登録する話です。
「リリア・ノクス」という名前を、初めて正式に書いた回です。この人の過去については、まだ話せないことがたくさんあります。




