第9話−2 八日目の奥域、あの子が走った
◆ 奥域
採取ポイントに着いたのは、ギルドを出て一時間ほど後だった。
東縁を抜けて、さらに奥へ。木が密になって、光が細くなる。足元が湿っていた。
解析の声:「10メートル先、右の岩の根元。カゲダケ2束。採取可能です」
ヨーヘイ:「ありがとうございます。引き続きお願いします」
採取へらで丁寧に掘り起こすと、カゲダケは根ごと抜けた。収納に収める。
順調だった。20分で10束中6束を確保した。このペースなら1時間以内に全部取れる。解析さんの誘導が的確だ。
ヨーヘイ:「行けるじゃないか。心配して損した。このまま粛々と採取して、さっさと帰って——」
解析の声:「撤退を推奨します。北東方面に、Fグレード上位種の反応が出始めています」
ヨーヘイ:「上位種……。あと4束で終わるんですよ。4束だけです。その間に来ますか」
解析の声:「現在の移動速度であれば、採取完了と接近のタイミングが拮抗します」
ヨーヘイ:「拮抗、か。つまり運次第だ」
足が、止まらなかった。
ヨーヘイ:「行ける。行けるはず。4束だけだ。4束採ったら絶対に走って帰る」
7束目を見つけたのは、さらに10分ほど後だった。岩の下に隠れるように生えていたカゲダケを根ごと抜き、8束目も近くで確保した。残りは2束。「あと少しだ」という気持ちが、知らないうちに足の動きを前のめりにさせていた。
足元の湿気が増してきていた。木の根の張り方が変わっている。斜面が近い証拠だ。ただ、ヨーヘイはその変化に気づきながらも、足を緩めなかった。あと2束。その計算が、判断を鈍らせていた。
解析の声:「北東の反応、距離が縮まっています。現在14メートル」
ヨーヘイ:「14メートル。まだ採れる。9束目を取ったら走る。それでいい」
岩の陰に、カゲダケの葉が見えた。採取へらを差し込む。手ごたえがある。もう少し——
解析の声:「12メートル。引いてください——」
ヨーヘイ:「今取ってます。ちょっと待ってください」
根ごと抜けた。9束目、確保。収納に収めた。
立ち上がった瞬間、解析さんの声が変わった。距離の読み上げではなく、もっと短い、一言だった。
解析の声:「北東12メートル。Fグレード上位種、2体。接近中です」
採取へらを収納に収めながら、同時に踵を返した。来た道を戻る。木の根を踏まないように走る。
10メートル。20メートル。
解析の声:「距離が縮まっています。右に迂回してください」
右へ。斜面になっていた。足元を確認しながら走る。
解析の声:「速度を落とさないでください」
ヨーヘイ:「速度を落とすなと速度を落として確認しろは両立しないんですが!」
斜面の角を曲がった瞬間、足元が変わった。
落ち葉の下に、湿った粘土質の土が隠れていた。一歩踏み込んだ右足が、音もなく沈んだ。体重が前に流れた。立て直そうとして左足を出したが、そこには木の根があった。
宙に浮いた。
解析の声:「左——岩の窪みに!」
体が、反射で左へ捻れた。
ヨーヘイ:「あ、落ちる——」
思考が、そこで止まった。
斜面を転がった。最初に背中が岩を打ち、肺の空気が全部抜けた。次に肩が地面を叩いて体が回転する。何かが折れるような音がした。自分の体の音なのか、枝の音なのか、判別できない。視界が何度も空と地面を入れ替え、最後に頭が何かに当たって、そこで動きが止まった。
静かだった。
木の葉が揺れている。風があるらしい。どこかで鳥が鳴いていた。自分がどんな体勢で倒れているのかも、しばらく分からない。痛みは、最初なかった。あるはずなのに、ない。体が驚きすぎて、まだ信号を受け取れていないのだと、どこか遠い頭で思う。
息が吸えなかった。
吸おうとするたびに、胸の中で何かが邪魔をした。肺が広がらない。3秒、5秒、10秒。やっと薄く空気が入ってきた瞬間、今度は痛みが来た。
右足だった。
動かそうとした右足が、脳天まで突き抜けるような痛みを返してきた。
ヨーヘイ:「っ——!」
声が出た。止められなかった。森の中に響く。
ヨーヘイ:「……しまった。奴らに聞こえた」
短剣が、3メートル先に転がっていた。這って取らないといけない。右足を動かさずに。静かに。素早く。
ヨーヘイ:「解析さん。2体の位置は」
解析の声:「北東9メートル。北17メートル。どちらも接近中です」
ヨーヘイ:「9メートル。這える。取って、立て膝で構えれば——」
でも立て膝で、右足が使えない状態で、2体を相手にして、どうする。
答えが出なかった。
地面に指を立てて、体を引きずり始めた。
ヨーヘイ:「く……っ、」
右足が動くたびに、奥歯の奥から音が漏れた。1メートル。もう1メートル。
ヨーヘイ:「……っ、動け、動け——」
右足の痛みが、波のように来ては引いた。引くたびに、また来た。
短剣を掴んだ。冷たい。指に鞘の感触が戻ってくる。
立て膝で構える。息が荒い。汗が目に入った。右足には体重をかけられない。
ヨーヘイ:「落ち着け。落ち着け、俺。外資系でもっとひどい修羅場を——いや、こんな修羅場はなかった。会議室で詰められるのと、足が動かない森の中で魔物に囲まれるのは全然違う」
笑えなかった。笑いたかったが、そんな余裕が自分にないことも分かっていた。
解析の声:「1体目、残り7メートル。正面です」
草が揺れた。大きな影が、木の間から見え始めた。
ヨーヘイ:「解析さん。俺、ここで死にますか」
聞いてから、後悔した。答えを聞くのが怖い。でも、もう聞いてしまっていた。
解析の声:「……」
ヨーヘイ:「その無言が、一番怖い」
影が、もう一歩近づいた。
その瞬間、ヨーヘイの頭に浮かんだのは、数字でも戦術でも、解析さんの声でもなかった。
朝、家族みんなで食べた味噌汁の匂い。
蓮がスニーカーを逆に履いていた、あの朝の光景。
美咲が振り返らずに「体がつらかったら横になってて」と言った、あの声。
ヨーヘイ:「帰りたい」
口から出た瞬間、目頭が熱くなった。情けなかった。44歳がこんな場所で、こんな理由で死ぬのかと思ったら、情けなくて、悔しくて、でもそれより何より——
ヨーヘイ:「美咲。蓮。結衣。ごめん、ちょっと待っててくれ。まだ諦めてない。諦めて——」
草が大きく揺れた瞬間、2体が同時に踏み出してきた。右側の影が木の間から姿を見せ、左側の気配もほぼ同時に動き始めた。挟まれる。そう気づいた時には、もう体が先に動いていた。
ヨーヘイは短剣を握り直して、立て膝のまま構えた。右足に少しでも体重をかけようとしたが、その瞬間に膝から腰にかけて激痛が走り、奥歯を噛んで殺した声が喉の奥に溜まった。立てない。でも、逃げる方向もない。
ヨーヘイ:「来るなら来い! 来てくれないと始まらないぞ!」
腹をくくってしまえば、不思議と手の震えが止まった。血の匂いがする。自分の血だ。右足の傷口が開いているのか、地面に赤いものが滲み始めているのが視界の端に見えた。見ないようにする。
そのとき——
視界の端に、何かがいた。
岩の窪みの奥。転落の衝撃で崩れた土の陰に、小さな影がうずくまっていた。さっきから、そこにいたのだろう。気配を殺して、息を詰めて。
小さな体だった。耳が不釣り合いなほど大きくて、その耳が左右にぴんと立っている。丸い金色の目がこちらをまっすぐに見上げていて、その目の奥に何か——怯えとも怒りとも違う、もっと真剣な光があった。
後ろ足に、赤いものが見えた。
ヨーヘイ:「……お前も、怪我してるのか」
2体の魔物が、また足を踏み出した。距離が縮まる。もう数秒もない。
その数秒の間に、ヨーヘイの頭の中で何かが動いた。考えたわけではない。ただ手が収納を開いていて、ポーションを一本取り出していて、気づいたときには膝をついてその小さな生き物の前に差し出していた。右足の痛みで膝をつく動作がひどくぎこちなかったが、それでも体は動いた。
ヨーヘイ:「飲めるか。飲めたら飲んでくれ」
自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。
生き物がポーションを見た。次にヨーヘイの顔を見る。それから背後の魔物の方へ一瞬だけ視線を向けて、また戻してきた。その目に、何かを測るような間がある。
それから、口をつけた。
ヨーヘイ:「よし」
飲んでいる間の数秒が、やけに長く感じた。2体が迫ってくる気配を背中で感じながら、ヨーヘイはその小さな喉が動くのを見ていた。
ポーションを飲み終えた生き物が、ヨーヘイを見た。
それから、収納の方へ鼻を向けた。
何かの匂いを嗅いでいる。次の瞬間、その小さな体が跳ぶように動いた。ヨーヘイの収納から、シーオの実の布包みを口にくわえた。
2体の魔物が、生き物の方を向いた。
生き物は一度だけヨーヘイを振り返った。その金色の目が、ヨーヘイの目と合った。
それから、反対方向へ全力で走り出した。
2体が、その背を追った。
足音が、遠くなっていった。
ヨーヘイは短剣を構えたまま、しばらく動かなかった。2体の気配が完全に遠ざかるのを確かめてから、息を一度、長く吐いた。
生きてる。
それだけを確かめて、収納を開いた。残りのポーションに手をかける。
ヨーヘイ:「……痛みがひどくなってきた。早く飲まないと——右足の感覚が、だんだんなくなっていく」
指がポーションを掴んだ。栓に親指をかけた。
そこで、頭が揺れた。
地面が傾いているような感覚がある。視界の端がぼやけて、焦点が合わない。血を流しすぎているのか、あるいは転落の衝撃が今頃になって追いついてきたのか、脚の力が急に抜けていくのが自分でも分かった。ポーションを握る手から、じわじわと力が抜けていく。
ヨーヘイ:「……っ、待て、まだ——」
栓が、開かなかった。指に力が入らない。
立っているつもりだったが、気づくと体が傾いていた。膝が折れる。地面が近づいてくる。ポーションが、手から滑り落ちた。草の上に転がる音がした。止められない。
ヨーヘイ:「解析さん。俺、ちょっと——限界かもしれない」
解析の声:「……」
声が、来なかった。
地面に頬がついた。冷たい。土の匂いがする。どこかで葉が揺れている。ポーションがすぐそこにある。見えている。でも、手が届かなかった。
痛みが、遠くなっていた。
ヨーヘイの意識が、そこで途切れた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【第9話 リザルト&ステータス】
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
▼ ヨーヘイのステータス(第9話終了時点)
Lv:3 HP:20/118(重傷・意識喪失) MP:52/52
スキル熟練度:
・《解析》Lv1 熟練度 49/100(+3)
・《収納》Lv1 熟練度 15/100(+1)
・《採取》Lv1 熟練度 22/100(+7)★大幅上昇
・《解体》Lv1 熟練度 8/100
・《料理》Lv1 熟練度 1/100
▼ 本話の収支
・採取(カゲダケ9束確保・残り1束):未換金
・手持ち:0枚(ツケ未返済)
▼ 収納アイテム
・短剣×1(地面に放置)
・採取へら×1
・冒険者証(Gランク・探索者)
・アイテム《ポーション》×1(地面に転落・手が届かず未使用)
・シーオの実(布包み・フィンが2体誘導のために持ち出し)
・カゲダケ×9束(採取済み・未換金)
▼ ヨーヘイの状態
・右足:重傷(骨折または重度捻挫・出血)
・全身:打撲・転落ダメージ
・意識:喪失(9話末尾)
・謎の小動物にポーション1本を使用
・残りのポーション1本:使おうとしたが手から滑り落ち未使用・地面に転落
・Fグレード上位種2体:フィンがシーオの実で誘導し引き離した(森の奥へ)
▼ 解析さんの状態
・ヨーヘイの「限界かもしれない」に無言
・何も言えなかった
▼ リリアの状態(宿・留守番中)
・サーラから「夕方まで出るな」と指示
・追っ手の気配を確認(宿の前を通過)
・手に白い光の兆候(第一覚醒・制御不能)
・サーラが「追われてる人の顔だ」と看破
▼ サーラへのツケ(未返済)
・宿代2人分60枚+朝食2人分(後払い)
▼ ヨーヘイの考察
解析さん、報告します。
あと1束だったんですよ。あと1束。それさえ取れれば全部賄えた。なのに足が止まらなくて、9束目まで行ってしまいました。欲を出すとろくなことがない——頭では分かっていたのに、計算が邪魔をしました。
斜面で転んだ時は、正直、死を覚悟しました。転がりながら「あ、落ちる」って思った瞬間、頭の中が異様なほど静かになったんです。あれは怖かった。着地した後に痛みが来た時は、思わず声が出てしまって——「っ——!」ってやつです。森中に響いたと思います。すみませんでした。
で、転んだ先に謎の生き物がいたんです。小さくて、耳がやたら大きくて、金色の目をした子です。怪我してたんですよ、その子も。なんか、放っておけなくて、ポーションを渡してしまいました。
あの子が2体を引き離してくれなかったら、間違いなく終わっていました。助かりました。本当に。
それで、残りのポーションを飲もうとしたんですが——右足の感覚がなくなってきていて、指に力が入らなくて、栓が開けられなくて。そのまま、意識が——
……あ、落としましたね、ポーションを。すぐそこに見えてるのに、手が届きませんでした。
以上、記録終わり。起きたら拾います。
【第9話-2】八日目の奥域、あの子が走った
フィンとの出会いです。
倒れているヨーヘイに、見知らぬ小動物が走り寄ってくる。その理由は、収納の中のシーオの実の匂いでした——解析さんと同じ理由です。
この子はこれから、ずっとそばにいます。




