第9話−1 八日目の朝、俺だけが行く
◆ 朝
目が覚めた瞬間から、頭の中で数字が動いていた。
ツケ60枚。朝飯2人分。解毒薬25枚。明日の宿代30枚。
ヨーヘイ:(全部足すと115枚以上必要で、手持ちは実質ゼロで、今日の収入もまだゼロで……待って、これ詰んでる? いや詰んでない。詰んでないけどどう計算しても赤字で、外資系で10年予算管理やってきた俺がなぜ異世界の宿屋でこんな計算をしているんだ。おかしい。絶対おかしい)
起き上がると背中が痛かった。昨日の疲れが残っている。窓の外はもう明るい。朝の光が床に細く差し込んでいた。
洗面を済ませて、階段を降りた。
サーラが帳場で台帳を開いていた。ヨーヘイの顔を見て、何かを察したような目をした。
サーラ(女将):「飯、置いてあるよ。後払いでいいから、今日食べていきな」
テーブルの上に、黒パンとスープが置いてあった。
ヨーヘイ:(先手を打たれた。この人は本当に、こういう人だ)
ヨーヘイ:「……ありがとうございます。絶対今日中に返します」
サーラ(女将):「分かってるよ。あんたはそういう人だから言ってるんだ」
それだけ言って、サーラは台帳に視線を戻した。
ヨーヘイが椅子を引いてスープに手を伸ばしたところで、階段を降りる音がした。
リリアだった。
足首はだいぶ良くなっている。まだ少し慎重な降り方をしているが、昨日より顔色がいい。ヨーヘイを見て、目が少し動いた。
リリア:「……おはようございます」
ヨーヘイ:「おはようございます。足、大丈夫ですか」
リリア:「……はい。だいぶ楽です」
リリアが席についた。サーラがもう一人分のスープを置いた。リリアが「ありがとうございます」と頭を下げた。
しばらく、静かに食べた。
ヨーヘイが立ち上がろうとしたところで、リリアが口を開いた。
リリア:「……今日、一緒に行きます」
ヨーヘイ:「行けないんです」
リリア:「……どうして」
ヨーヘイ:「ギルドに登録していないと、依頼の同行ができないんです。今日はまず俺が稼いで、今夜ツケを返して、それから一緒に登録に行きましょう。今日だけです」
リリア:「……でも、私も何かできます。足手まといにはなりません」
ヨーヘイ:「分かってます。リリさんが心配なのは、本当にそう思ってくれているからだと思っています。ただ、今日は一人の方が動けます。足が完全に治っていないうちに連れ回したくないんです」
リリアが黙った。何か言いたそうだったが、飲み込んだ。唇をわずかに動かして、また閉じた。
ヨーヘイ:(怒っているのか、心配しているのか。……どっちだろう)
ヨーヘイは短剣を腰に差して、扉に向かった。
ドアノブに手をかけた瞬間、振り返ってしまった。
リリアがこちらを見ていた。スープの椀を両手で持ったまま、まっすぐ見ていた。
ヨーヘイ:(振り返るんじゃなかった。行けなくなりそうだから)
ヨーヘイ:「……行ってきます」
扉を閉めた。
◆ ギルド
朝のギルドは、すでに何人かの冒険者が動いていた。
掲示板の前に立った。
ホーンラビット討伐、3体。報酬換算で40枚。採取依頼、薬草2種。報酬換算で20枚。
ヨーヘイ:(全部合わせて60枚。ツケの返済にはなる。でも解毒薬が買えない。明日の宿代が出ない。リリさんの登録料も要る。全然足りない)
視線が、掲示板の端に止まった。
〈東縁・奥域 採取依頼。カゲダケ(薬草)・ツキシダ(薬草)各10束。報酬:銅貨110枚相当〉
右下に小さな注記。〈対象ランク:Eランク以上〉
ヨーヘイ:(110枚。全部賄える。解毒薬も宿代も登録料も、まだ余る。でもEランク向け……俺はGランクだ)
心の中で計算した。ポーションは2本ある。短剣は新品だ。解析さんがいる。奥域といっても採取なら戦闘は避けられる。
ヨーヘイ:(行ける。行けるはず。解析さん、奥域の危険度は)
解析の声:「Fグレード上位種の生息域に近接しています。通常の採取域より危険度が高いです」
ヨーヘイ:(でも採取だけなら遭遇率は下げられますよね)
ヨーヘイ:(珍しく返事がなかった)
依頼の紙を取った。
カウンターに持っていくと、ミナが受け取って内容を確認した。一瞬、動きが止まった。
ミナ(受付):「レンさん、この依頼はEランク対象です。Gランクの方には……」
ヨーヘイ:「大丈夫です。気をつけます」
ミナが少し黙った。判を押した。依頼票を返してくれた。
ミナ(受付):「……帰ってきてください」
いつものてきぱきした声より、少しだけ低かった。
ヨーヘイ:(ミナさんに、そういう顔をさせた。帰ってきたら絶対謝ろう。帰ってきたら、必ず)
ギルドを出ると、朝の光が正面から当たった。目が少し眩しい。短剣の柄に手をやって、重さを確かめる。大丈夫だ。行ける。
足が、東の方向に向いた。
◆ 宿・リリア
ヨーヘイが出ていった後、宿の中が静かになった。
リリアは椅子に座ったまま、スープの残りを見ていた。冷めている。飲む気になれなかった。
サーラが帳場から声をかけた。
サーラ(女将):「食べないのかい」
リリア:「……少し、気になることがあって」
サーラ(女将):「レンさんのことかい」
リリアが顔を上げた。サーラは台帳を見たまま、ペンを動かしていた。
リリア:「……心配、ですか。あの人のこと」
サーラ(女将):「うちの宿泊客は全員心配だよ。それだけ」
それだけ、と言ったが、サーラの手が一瞬だけ止まった。
リリア:(この人は、本当はもっと心配している。でも言わない。こういう人なんだ)
リリアは席を立って、2階に上がった。
部屋に入ると、窓から外が見えた。村の通りが見える。人が行き交っている。ヨーヘイの姿は、もうなかった。
リリアは自分の手のひらを見た。何もない。当たり前だ。でも、試してみたかった。
手をかざしてみる。静かな部屋の中で、自分の息だけが聞こえた。
何も起きない。
もう一度。今度はゆっくりと、何かを引き出すように意識を集めてみた。
指先から、白い光が滲んだ。
息をのんだ。
リリア:(……嘘じゃなかった)
光はすぐに消えた。どうすれば続くのか分からないし、何ができるのかも分からない。ただ確かにそこにあった。それだけは分かった。
お母さんが、ずっと昔に言っていた。「あなたには力がある。でも今はまだ眠ってる。いつか目を覚ます日が来るよ」と。幼い頃には意味が分からなかった。意味が分かる前に、あの日が来てしまった。
目頭が熱くなった。こらえた。泣くのは後でいい。今は、まだ。
その時、窓の外に気配を感じた。
通りを歩く人の足音とは違う。遅い。確認するような歩き方だ。リリアは窓から離れ、壁に背をつけた。息を詰める。体が固まった。
足音が、宿の前で止まった。
少し間があって、また動き出した。遠ざかっていく。
リリアは動けなかった。
階段を上がってくる音がした。サーラだ。扉を軽くたたく音がして、開いた。
サーラ(女将):「……2階から出るんじゃないよ。夕方まで」
リリア:「……サーラさんは、何か知ってるんですか。私のこと」
サーラが少しの間、リリアを見た。
サーラ(女将):「何も知らないよ。ただ、あんたの顔を見れば分かる。誰かに追われてる人の顔だ。うちに来るのは冒険者だけじゃないからね」
それだけ言って、扉を閉めた。
リリア:(見つかった。ここまで逃げても、見つかる。……レンさんが帰ってくるまでに、どうにかしないといけない。でも私には何もない。何も、ない)
気がつくと、両手が小さく震えていた。怖いのか、嬉しいのか、自分でもよく分からない。胸の奥が、じわりと熱い。息をするたびに、その熱さが少しずつ広がっていく。今まで感じたことのない感触だった。でも、どこかで知っているような気もした。
もう一度だけ試してみた。手をかざして、さっきと同じように意識を集めようとする。でも今度は何も起きない。光は出なかった。さっきのが本当だったのかどうかも、だんだん自信がなくなってくる。
リリア:(……でも、あった。確かにあった)
そう言い聞かせて、リリアは窓の外に目をやった。
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【第9話−1 リザルト&ステータス】
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▼ ヨーヘイのステータス(9話−1終了時点)
Lv:3 HP:118/118 MP:52/52
スキル熟練度:(変化なし)
・《解析》Lv1 熟練度 46/100
・《収納》Lv1 熟練度 14/100
・《採取》Lv1 熟練度 15/100
・《解体》Lv1 熟練度 8/100
・《料理》Lv1 熟練度 1/100
▼ 本話の収支
・手持ち:0枚(ツケ未返済)
・受注依頼:東縁・奥域採取(カゲダケ・ツキシダ各10束・報酬110枚)
▼ 収納アイテム
・短剣×1
・採取へら×1
・冒険者証(Gランク・探索者)
・アイテム《ポーション》×2
・シーオの実(残量)布包み
▼ 本話の動き
・サーラが朝食を先手で用意(ツケに上乗せ)
・ギルドでEランク対象の奥域採取依頼を強行受注
・ミナ「帰ってきてください」(いつもより低い声)
・リリアの手に白い光の兆候(制御不能)
・追っ手の気配を宿の前で確認(通り過ぎた)
・サーラがリリアを看破「追われてる人の顔だ」
▼ ヨーヘイの考察
リザルト欄、今は書けない。今ごろ奥域に向かってる最中だから。
代わりに言っておく。ミナさんに「帰ってきてください」って言わせた。
それだけで、今日の判断が正しかったかどうかは分かる気がする。
でも足は動いた。戻れなかった。
帰ったら、ちゃんと説明する。
【第9話-1】八日目の朝、俺だけが行く
リリアを宿に残して、一人で稼ぎに行く話です。
「声が聞こえると止まれないみたいです」と言ったヨーヘイが、言葉通りの人間であることを証明する回でもあります。




