第94話 蓮が、来た。
異世界に落ちた。帰れないアラフォーパパが、異世界で戦う。
とりあえず、腹が減ったので魔物を焼いた。
面白いと思ったら、評価やブックマークをもらえると
ヨーヘイより先に作者が泣きます。
その声が、確かに、蓮のものだった。
夢の続きだと思った。草地の闇に、家のクローゼットの扉が、四角く光って立っている。木目の傷の一つひとつまで、知っている。把手の、塗装が剥げた部分も。下の段の、結衣がクレヨンで描いた、青い小さな丸も。何百回と開け閉めした、あの扉が、今、夜の草の上に、そのまま立っていた。その扉が、少しだけ開いていて、光の隙間から、小さな顔が、こちらを覗き込んでいる。
蓮:「……パパ?」
俺は、動けなかった。喉の奥が、固まっていた。声を出したら、この光が、消える。そう思えて、息を殺した。瞬きをしたら、扉ごと、夜に溶けてしまう。だから、目を、見開いたまま、まばたきも、こらえた。
でも、消えなかった。
扉が、もう少し開いた。蝶番の、きしむ音まで、家のものと同じだった。蓮が、敷居をまたいで、一歩、こちらへ踏み出した。裸足だった。パジャマの裾が、くるぶしの上で、よれている。寝起きの、ぼんやりした目で、それでも、まっすぐに、俺を見ていた。寝癖で、右の髪が、跳ねている。
蓮:「パパ、だ」
二歩目で、蓮の足が、草に触れた。冷たかったのだろう。小さく、ひゃっ、と肩をすくめた。その拍子に、あの子の顔が、くしゃっと崩れて、走り出した。
俺は、膝をついて、両手を広げた。考えるより、先だった。小さな体が、胸に飛び込んできた。軽い。びっくりするくらい、軽い。なのに、腕の中で、確かに、重い。頬に、あの子の髪が当たる。寝汗の、少し甘い、子ども特有の匂いがする。背中に回した手のひらに、薄いパジャマ越しの、熱が伝わってくる。高い。子どもの体温は、いつだって、こんなに高かった。心臓が、とんとん、と、速く打っているのが、胸を合わせた俺の方にまで、響いてくる。
ああ、と思った。これは、夢じゃない。本物の、蓮だ。
蓮:「パパ、いた。いた。ずっと、いなかった」
しがみつく腕に、力がこもる。指が、俺のシャツを、ぎゅっと掴んで、離さない。俺は、その背中を、ただ、さすった。何か言おうとして、声が、出なかった。出したら、いろんなものが、いっぺんに、こぼれそうだった。
光が、強くなった。
まぶたの裏まで、白くなって、足元の草の感触が、すっと消えた。風の音も、虫の声も、遠ざかった。抱きしめた腕の中の、蓮の重さだけが、変わらず、残っていた。気づくと、俺と蓮は、白い部屋に、立っていた。
覚えのある場所だった。床も、壁も、天井も、境目がない。どこまでが床で、どこからが壁なのか、影が落ちないから、分からない。白いだけの、音のない空間。ここへ来るのは、二度目だ。最初に、この世界へ落ちた、あの時。クローゼットの奥から、転がるように、俺が通り抜けた、この部屋。あの時は、わけも分からず、ただ怖かった。今は、腕の中に、蓮がいる。
蓮が、腕の中で、顔を上げた。きょとん、とした目で、周りを、ぐるりと見回している。怖がっては、いなかった。むしろ、知らないお店に入った時みたいな、面白いものを見つけた顔だった。
蓮:「ここ、どこ? まっしろ」
ヨーヘイ:「パパも、よく分からないんだ。でも、大丈夫。怖くない」
部屋の一面に、窓のような切れ目があって、その向こうに、さっきまでいた草地が、見えていた。星が、降るほど出ている。山の稜線が、黒く、波打っている。馬車の影。その傍らで、ルカとリリアが、毛布にくるまって、眠っている。リリアの寝顔は、穏やかだった。ルカの尾の先が、寝息に合わせて、ゆっくり揺れている。少し離れた草の上で、フィンが、まんまるに、丸まって寝ていた。尾を、鼻先に、巻きつけて。
蓮:「……わんわん?」
蓮が、窓の方を、指さした。
ヨーヘイ:「わんわん、じゃないんだけどな。フィンっていう、パパの、大事な仲間だよ」
言いながら、自分の声が、少し、笑っているのに気づいた。こんな状況で、笑える。それくらい、この子の指さす指先が、いつもの蓮で、おかしかった。
蓮:「フィン。……ふわふわ?」
ヨーヘイ:「ふわふわだぞ。今度、触らせてやる」
蓮が、ちゃんと、その名前を、繰り返した。窓の向こうの、星と、草と、まるい毛玉を、目に、焼きつけるみたいに、見ていた。それから、足元を、踏んでみて、不思議そうに、首を、かしげた。
蓮:「パパ、ここ、かげ、ない。ぼくの、かげも、パパの、かげも」
言われて、初めて、気づいた。本当だ。これだけ、まわりが白いのに、足元に、影が、落ちていない。光が、どこか一方から、来ているわけではないらしい。蓮は、しゃがんで、白い床を、手のひらで、ぺたぺた、と、触ってみていた。冷たくも、温かくも、ない、と、いう顔をしていた。
ヨーヘイ:「変な部屋だろ。パパも、最初に来た時、びっくりしたんだ」
蓮:「ふしぎのくにの、アリス、みたい」
寝る前に、何度も、読んでやった絵本だ。覚えていたのか。俺は、しゃがんだ蓮の隣に、腰を下ろした。目線を、合わせると、蓮が、こっちを、まじまじと、見た。小さな手が、伸びてきて、俺の、頬に、触れた。
蓮:「パパ、ひげ。ちくちく」
ヨーヘイ:「うん。しばらく、剃ってないからな」
蓮:「まっくろ。おひさまの、においも、する。あと、けん、せおってる」
子どもの目は、よく、見ている。日に焼けた肌も、伸びた無精ひげも、背中の二刀も、家にいた頃の俺には、なかったものだ。その全部を、蓮は、悪いことみたいには、言わなかった。ただ、知らないパパが、少し、増えた、という顔で、その頬を、ぺたぺた、と、確かめていた。
その時、部屋の真ん中の、何もなかったところに、人が、立っていた。
長い、白に近い色の髪。薄い布を、ゆったりと、まとっている。見た目は、二十代の、半ばくらい。けれど、目の奥に、妙な、古さがある。ずっと、声だけ聞いてきた、あの人だった。顔を、見るのは、最初に落ちてきた、あの日以来だ。
解析:「……えっ」
その人が、俺と蓮を見て、固まった。
解析:「えっ、えっ、これは——お子さん、ですか。なんで、どうして、こちら側に——扉は、片側からしか、ええと、いえ、そんなはず、は」
指を折って、何かを、数え始めた。早口だった。髪が、一房、頬に落ちているのも、気づいていない様子だった。俺が知っている、落ち着いた、丁寧な、あの声とは、まるで、別人みたいだった。視線が、俺の腰のあたり——収納に入れた、肉の包みの方へ、ちらっと動いて、口元が、ほんの一瞬、ゆるんだ。それから、はっとして、引き締めた。
ヨーヘイ:「解析、さん」
呼びかけると、その人が、はっと、顔を上げた。咳払いを、一つして、髪を撫でつけ、背筋を、伸ばした。
解析:「……失礼、しました。業務の範囲内です」
声が、いつもの、落ち着いたものに、戻っていた。けれど、その手が、布の裾を、ぎゅっと、握っているのは、見えていた。
ヨーヘイ:「こいつが、ここに来たのは。どうして、なんですか」
解析:「それは——……」
その人が、口を、開いて、止めた。視線が、ほんの一瞬、泳いだ。言いたいことと、言ってはいけないことの、その間で、つかえている。そんな、止まり方だった。
解析:「その、本当は——……すみません。何でも、ないです。今は、まだ、お話、できないことが、あります」
それきり、口を、つぐんだ。
俺は、それ以上、聞かなかった。聞いても、この人は、言わないだろう。前も、そうだった。肝心なことは、いつも、煙に巻かれる。それに、今は、問い詰めることよりも、腕の中の、重さの方が、ずっと、大事だった。
蓮が、ふいに、俺の胸に、顔を、埋めた。すんすん、と、鼻を、鳴らしている。
蓮:「パパ、お肉のにおい」
胸の奥を、何かが、突いた。
蓮:「やいたお肉の、におい。こげたとこの、におい。……ねえ、パパ、お肉、やいたの?」
炭の、香ばしい匂い。脂が、火に落ちて、立ちのぼる、あの甘く焦げた煙の匂い。表面がはぜて、こんがりとなった、肉の、端の匂い。何日も、火のそばにいた服に、それが、深く、しみついている。自分では、もう、気づかなくなっていた匂いを、蓮は、目を閉じて、夢中で、吸い込んでいた。鼻を、ひくひく、させながら。家で、焼肉をした、あの日の顔だった。換気扇の下、網の前に、ちょこんと陣取って、まだか、まだか、と、待っていた、あの顔。
俺は、蓮の頭ごしに、自分の、肩の匂いを、嗅いでみた。本当だ。炭と、脂と、焦げた肉の、匂いが、する。火加減を見て、ひっくり返して、塩を振って、を、何日も、繰り返してきた。その全部が、布の、繊維の、奥の方まで、染み込んでいる。香ばしさの底に、ほんの少し、けもの臭さも、混じっている。家の、換気扇の下とは、違う、野っ原で、たき火で、焼いた匂いだ。けれど、蓮にとっては、それも、全部、ひとくくりの、「パパの、お肉のにおい」、なのだった。
蓮:「……ハツ、ある?」
焼き鳥の、ハツが、好きだった。レバーは、お皿の端に、ぷいっと、よけるくせに、ハツだけは、自分から、もう一本、と、串を、ねだる子だった。こりこりした歯ごたえが、好きなのだと、口の端を、脂で、てからせながら、得意げに、説明してくれた。網の、いちばん、いいところを、いつも、この子に、譲っていた。
俺の、目の奥が、熱く、なった。
ヨーヘイ:「……あるよ。いっぱい、ある。お前のために、パパが、焼いてやる。こげるくらい、いっぱいな」
蓮:「ほんと?」
ヨーヘイ:「ほんとだ。約束する」
いつか、この子に、肉を、焼いてやる店を持つ。ずっと、胸の底に、置いてきた、その願いが、今、こんなに、近くにある。匂いを嗅ぎ分けて、ハツを欲しがる、この小さな鼻が、すぐ、そこにある。手を、伸ばせば、届く。
少し離れたところで、解析さんが、こちらに、背を向けた。立ち聞きを、しないように、という、そんな所作だった。布の裾が、白い床に、音もなく、流れる。父子の時間に、立ち入らない、と決めたように、その人は、窓の方を、向いて、じっと、星を、見ていた。背中が、何か言いたげに、見えたのは、俺の、気のせいかもしれない。
蓮:「みさきママ、ね、パパいないって、よる、おふとんで、ないてた。ゆいも、つられて、ないた。……ぼくは、ないてないけど」
その名前を、聞いて、息が、詰まった。ないてないけど、と言う、その声が、最後だけ、少し、震えていた。泣くのを、こらえる時の、あの、上ずった声だった。俺は、その頭に、手を、置いた。柔らかい髪が、指の間で、ぐしゃり、となる。寝癖の、跳ねたところが、手のひらを、くすぐる。それ以上、言葉が、続かなかった。続けたら、こっちが、先に、泣きそうだった。
——それから、遅れて、気づいた。
おかしい。時間は、止まっている、はずだった。あなたがこちらにいる間、元の世界の時間は止まります。ご家族は、何も変わらない状態で待っています。最初の日、この人は、確かに、そう言った。俺は、その言葉に、ずっと、寄りかかってきた。帰らないことを選ぶ夜のたびに、あの一言を、胸の下に、敷いてきた。あっちの時間は、止まっている。誰も、待ちくたびれたりは、しない。だから、まだ、大丈夫だ、と。
なのに、蓮は、言った。よる、ないてた、と。ずっと、いなかった、と。
俺は、窓の方を向いたままの、その背中に、聞いた。
ヨーヘイ:「……解析さん。時間は、止まってるんじゃ、なかったんですか。最初の日、あなたは、そう言った」
背中が、こわばるのが、分かった。振り向きは、しなかった。
解析:「…………すみません」
それだけ、だった。謝った。違います、とは、言わなかった。つまり、そういう、ことだ。俺が、選ばずに、ずるずると、こちらにいた間——あの家の時間は、流れていた。美咲の夜は、まるごと、夜だった。
蓮が、また、顔を、上げた。今度は、まっすぐに、俺の、目を、見た。澄んだ、まんまるの目だった。
蓮:「……パパ、帰らないの?」
帰れる。帰れるんだ。この扉を、くぐれば、いい。それだけの、ことだった。ずっと、自分で、選べなかった、その、帰り道が、今、目の前で、光っている。手を引いて、この子と、くぐればいい。それで、終わる。
なのに、すぐに、うん、とは、言えなかった。
ここには、まだ——。
ルカの、里の、子どもたち。薄めて使うはずの、最後の一本。リリアが、向かう、北の谷。火を、入れていない、最後の、素材。途中で、置いてきた、いくつもの「まだ」が、足首に、絡みついて、離さない。帰れる、と分かった、その瞬間に、帰れない理由の方が、こんなにも、はっきりと、立ち上がってくる。
俺は、答えられ、なかった。
蓮が、俺の顔を、じっと、見ていた。せかしも、しなかった。ただ、待っていた。そして、何も、言わずに、その、小さな手で、俺の、手を、握った。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【第94話 リザルト&ステータス】
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
▼ ヨーヘイのステータス(本話終了時点)
Lv:31(戦闘なし・夜中の出来事のみ) HP:504/504 MP:244/244
スキル熟練度(本話で動いたものだけ記載):
・なし(調理・戦闘・採取いずれもなし。《料理》Lv3・熟練度5を維持)
▼ 本話の収支
・収入:なし
・支出:なし
・本話終了時手持ち:20,581枚(銅貨)
▼ 収納アイテム(前話からの変動分のみ)
・変動なし(前話で最後の塊を焼き切ったため、本話での増減なし)
・小瓶一本(ルカが布に包んで継続携行=里で薄めて使う想定)に変動なし
・各魔石・装甲・厚皮・換金待ちの品は継続保持。レア鉱石はドンネ預かり
▼ 本話の出来事
・93末の続き=夜中に光ったクローゼットの扉から、息子の蓮が、現代側から異世界の草地へ踏み出してくる。ヨーヘイが抱きとめる=小さい体・裸足・高い体温で、夢ではなく現だと知る
・扉の光に包まれ、二人で白い無音の女神の部屋へ。最初にこの世界へ落ちた時と同じ場所。窓の向こうに、就寝中のルカ・リリア・フィンが見える=蓮が異世界を初めて目にする(フィンの寝姿に「わんわん?」「ふわふわ?」)
・解析さん=女神が人の姿で現れる。想定外の越境に慌てる→収納の肉の匂いに一瞬ゆるむ→「業務の範囲内です」で蓋をする→言いかけて引っ込める(来た理由・帰れない事情は伏せたまま=「今はまだお話できないことがあります」)
・蓮が、ヨーヘイの服にしみついた焼肉(炭・脂)の匂いに気づき、顔を埋める=「お肉のにおい」「ハツ、ある?」。家で網の前に陣取っていた頃の顔。ヨーヘイの胸が詰まり、「焼いてやる」「約束する」と返す
・美咲・結衣は名前のみ(蓮の口から「よる、ないてた」と伝わる=再会は持ち越し)
・蓮の言葉を受け、ヨーヘイが1話の言明「元の世界の時間は止まる」との食い違いに気づき、解析に直接問う→解析は「すみません」とだけ答え、否定も説明もしない(時間のずれの真相はまだ明かされない)=「帰らない」選択の拠り所だった前提が崩れる
・末尾=蓮「……パパ、帰らないの?」。帰れると分かった瞬間、置いてきた「まだ」が一斉に絡みつく。ヨーヘイは答えられず、蓮が黙ってその手を握った
▼ ヨーヘイの考察
解析さん、これは、記録に、残るんでしょうか。残らない気も、します。それでも、書いておきたい。
蓮が、来ました。あの子の、足が、こちらの草を踏みました。冷たかったのか、ひゃっ、と肩をすくめて、それから、走ってきました。軽くて、熱くて、本物でした。腕の中で、すんすん、と、俺の服の匂いを嗅いで、お肉のにおい、と言いました。ハツ、ある、と。あの子は、いつも、そうでした。レバーは残すのに、ハツだけは、自分から、もう一本、と、ねだる。覚えていてくれた、というより、忘れていなかったのは、たぶん、俺の方です。
帰らないの、と、訊かれました。帰れる、はずなんです。扉は、すぐ、そこにある。なのに、口が、動きませんでした。帰れると分かった途端に、帰れない理由が、足首に、巻きついてきました。ルカさんの里。リリアさんの北。焼いていない、最後の、一つ。ずるい、と思います。ずっと、選べないことを、行き先がないことの、せいにしてきたのに。本当は、行き先が、できた途端に、俺は、また、立ち止まっている。
それから、解析さん。時間は、止まっている、と、あなたは、最初の日に、言いましたね。蓮は、ママが夜に泣いていた、と言いました。あなたは、すみません、とだけ、言った。……責める資格が、俺にあるのかは、分かりません。あの言葉を、疑いもせず、枕にして、眠ってきたのは、俺の方です。
あの子は、何も言わずに、俺の手を、握りました。あの手の、小ささを、あの握る力の強さを、どう書けばいいのか、俺には、まだ、分かりません。
最後まで読んでくれてありがとうございます。
感想・評価・ブックマーク、どれでも嬉しいです。
星ひとつでも、ヨーヘイの飯がうまくなります。
また次話でお会いしましょう。




