第90話 追っ手が、動いた。
異世界に落ちた。帰れないアラフォーパパが、異世界で戦う。
とりあえず、腹が減ったので魔物を焼いた。
面白いと思ったら、評価やブックマークをもらえると
ヨーヘイより先に作者が泣きます。
その匂いが、また、追いついてきた。
リリアの「北の谷へ少し寄ってほしい」という言葉は、途中で宙に浮いたままだった。彼女自身、それを言いかけた口の形のまま、止まっている。フィンが、街道の後ろ——上ってきた斜面の、下のほうを向いて、低く鳴いていた。いつもの、キュッでも、キューンでも、キュウッでもない。喉の奥で押し殺したような、地を這う声だった。
解析が捉えた、あの気配。王都に入る前に背中へ貼りついていたのと、同じ匂い。その意味が、遅れて、首の後ろを冷やした。
俺は、足を進めたまま、肩越しに一度だけ振り返った。立ち止まらない。立ち止まれば、こちらが気づいたことが、向こうに伝わる。
ヨーヘイ内心:(リリアさん、ルカ、そのまま歩いてください。振り返らないで)
声には出さず、口の動きと、手のひらを下に向けた仕草だけで伝えた。ルカの尻尾が、ぴんと張った。耳が、後ろへ倒れる。それでも、足は止めなかった。賢い。リリアも、浮かせた言葉を静かに飲み込んで、前を向き直した。
霧が出始めていた。西の山越えにかかる街道は、ここから上りが急になる。朝のうちは晴れていた空が、稜線に近づくにつれて白く濁って、十歩先の岩肌が滲んでいた。
解析:「数は、おそらく二。距離、およそ二百。一定の速度で、間を詰めています。襲うつもりがあるなら、もっと急ぐはずです。観察、あるいは——追跡そのものが目的かと」
フードの輪郭が、霧の向こうに一瞬だけ滲んで、消えた。顔は見えない。声も、立てない。誰に頼まれたのかも、分からない。分からないまま、ずっと、後ろにいる。
ヨーヘイ内心:(前にやり合った時とは、出方が違う。あの時は、いきなり来た。今度は、間合いを測ってる)
あの夜の襲撃を、思い出す。剣を抜いて、正面からぶつかって、辛うじて凌いだ。あれをもう一度やる気は、ない。こちらには、リリアがいて、ルカがいて、フィンと、カゼがいる。守りながら正面で殴り合うのは、いちばん下手なやり方だ。
ヨーヘイ:「ルカ」
ようやく、低く声を出した。霧が音を吸うから、後ろまでは届かない。
ルカ:「……分かっとる。倒すんと違うんやろ」
ルカも、声を落としていた。普段の威勢のいい大阪弁が、半分の音量に絞られている。
ヨーヘイ:「正面から当たらない。撒きます。この霧と、地形を使う」
リリアが、こくりと頷いた。
リリア:「……あの、わたし、足元を。岩が、濡れています。皆さんが、滑らないように」
彼女の手のひらが、淡く光った。攻撃の光ではない。前の世界の盾が、矢を弾くように——彼女の魔法は、いつも、誰かを庇うほうに向く。濡れた岩の表面に、薄い光の膜が走って、踏んだ時の滑りを止めた。足場が、生まれる。
俺は、頭の中で道を組み立てた。この先、街道は岩場を縫って、細い隘路に入る。馬車一台がやっと通れる幅。両脇は切り立った岩。あそこで、後ろとの間に、壁を作れる。
ヨーヘイ:「カゼ、頼みます。隘路を抜けたら、合図で速度を上げてください」
栗毛の馬が、鼻を鳴らした。分かった、という返事だと、もう分かる。
隘路に入る。霧が、岩の間に溜まって、いっそう濃い。背後の足音が、岩に反響して、近く聞こえたり、遠く聞こえたりした。フィンが、外套の中で、俺の胸に鼻先を押しつけて、低く鳴く。右だ、と教えている。気配は、右の岩棚の上を、回り込もうとしている。
解析:「一名、上方へ。挟む動きです」
ヨーヘイ内心:(させない)
《瞬歩》。
地を蹴る感覚が、いつもと違った。倒すための踏み込みではない。先回りするための、回り込み。岩棚の付け根まで一息で詰めて、登りかけたフードの足場を、剣の腹で払った。斬らない。崩す。相手の体が、霧の中で泳いで、岩を掴み直す。その一瞬の隙に、俺はもう背を向けて、隘路へ戻っていた。
戻った先に、もう一人が、いた。
霧の壁から、滲み出すように。フードの下から、白い刃が、横薙ぎに来た。声も、気合も、ない。それが、いちばん厄介だった。呼吸を読ませない相手だ。俺は二本の剣を交差させて、それを受けた。受けるだけ。打ち返して、深追いをすれば、隘路の奥のリリアたちから、俺が離れることになる。鋼と鋼が噛んで、火花が、霧の白を一瞬だけ橙に染めた。腕に、重い痺れが走る。
ヨーヘイ内心:(重い。腕力で押す型じゃない。手数で削るやつだ)
受け流して、半歩、退いた。相手が、踏み込んでくる。その爪先が、リリアの張った光の膜を踏んだ。濡れ岩のはずの足場が、思ったより滑らなかったぶん、相手の体重が、わずかに前へ流れた。読みが、狂ったのだ。俺はその崩れた拍子を狙って、剣の柄頭で相手の肩を突き、間合いを切った。倒れはしない。だが、距離は、空いた。
ルカ:「ヨーヘイ、こっち!」
ルカの炎が、隘路の入口で、低く帯を引いた。熱で、霧が一瞬だけ巻き上がる。目くらましだ。燃やすためじゃない。後ろから来る相手の視界を、白く塗り潰すための、一筋。味の戻ったルカの炎は、前より、芯が太い。
隘路を抜けた。両脇の岩が開けて、視界が広がる。
ヨーヘイ:「カゼ!」
馬車が、跳ねるように速度を上げた。同時に、俺は隘路の出口に積まれていた——というより、長い年月で崩れ落ちていた岩の山に、肩から体当たりをした。一つが動けば、上が崩れる。岩場の理屈は、前の世界の崩れかけた石垣と、同じだ。重い音を立てて、岩が隘路の口を半ばまで塞いだ。完全には埋まらない。だが、人ひとりがくぐるには、しゃがんで、時間がかかる。
その「時間」が、欲しかった。
解析:「追跡、後方へ後退。距離、再び開いています」
霧の向こうで、フードの輪郭が、岩の山の手前で立ち止まったのが、滲んで見えた。追ってこない。無理に越えようとも、しない。ただ、こちらを見ている。それから、霧に溶けるように、引いた。
誰も、口をきかなかった。馬車の車輪の音と、自分たちの呼吸だけが、しばらく続いた。
ルカ:「……行ってもうた、んかな」
ヨーヘイ:「分かりません。撒けただけです。倒したわけじゃない」
倒せなかった、のではない。倒さなかった。あれが何者で、何のために追ってくるのか、それを知らないまま斬ってしまうのは——俺の性に、合わない。それに、守る相手がいる隘路で、賭けに出る理由もなかった。
稜線を一つ越えた、岩陰の窪地で、ようやく荷を下ろした。火は、小さく。煙が、稜線の上に立つと、遠くから見える。それだけは、避けたかった。
携行食を出した。ヴェルナとニナがくれた塩漬けの肉と、餞別の干した実。山越えの間は、これで繋ぐと決めていた。塩漬けを薄く切って、温めた石の上で、軽く炙る。脂が、じゅっと音を立てて、岩陰に匂いが立った。火を大きくできない分、塩の塩梅で、満たす。
ルカ:「……うっま。こういう時に食う飯が、いちばん効くわ」
リリア:「……ほんとうに。手が、温かくなります」
干した実を一つ、口に入れた。甘みと、わずかな酸み。それが、舌の上でほどけた瞬間、ふいに、あの子の顔が浮かんだ。
ヨーヘイ内心:(蓮。お前、干した果物、好きだったな。スーパーの袋を、勝手に開けて、怒られてた)
追われている最中でさえ、飯は、旨い。旨いと感じる自分が、まだ、いる。それを確かめるみたいに、俺はもう一切れ、塩漬けを炙った。
ルカが、膝を抱えて、火を見ていた。耳が、力なく、横へ垂れている。さっきの戦いの緊張が解けた反動か、それとも、別のことを考えているのか。
ルカ:「……うちの里の子らも、はよ、こういうん食わしてやりたいわ。立てんようになってる子がおる、いうのが、ずっと、ここ(胸)に引っかかっとる。私だけ、治してもろて、こうして飯食うて。なんや、申し訳ないみたいな気持ちに、なる時があるねん」
その横顔は、前に屋台で見た、客に笑っていた顔とは違った。当事者の顔だ。俺は、何も言わずに、炙った塩漬けを一切れ、ルカの手に乗せた。
ヨーヘイ:「申し訳ないなら、なおさら、食ってください。あなたが倒れたら、薬の薄め方を確かめる人が、いなくなる」
ルカが、少し驚いた顔をして、それから、ふっと笑った。
ルカ:「……ほんま、あんたは、そういう言い方しかせえへんな」
リリア:「……ふふ。でも、ヨーヘイさんのおっしゃること、わたしも、そう思います。ちゃんと、食べて、ちゃんと、休んで。それから、行きましょう。北の谷にも、ルカさんの里にも」
リリアが「北の谷」と、もう一度、口にした。昼間、途中で途切れた、あの言葉の続きを、自分から拾い直したのだ。俺は、それを聞き留めて、頷いた。道のことは、追っ手を完全に振り切ってから、地図を広げて決めればいい。
夜になった。
リリアとルカは、馬車の脇で、先に休んだ。フィンが、リリアの膝で丸まって、尾を一度だけ揺らす。カゼは、立ったまま、目を半分閉じている。俺は、見張りの番だった。岩に背を預けて、消えかけた火の残りを、見ていた。
解析:「ヨーヘイさん」
頭の中で、その声が、いつもより少しだけ、慎重に響いた。
解析:「……クローゼットの、接続状態を確認しました」
俺は、瞬きを一つ、した。
ヨーヘイ:(……今は? 繋がってるのか)
解析:「はい。いつでも、帰れます」
火が、ぱちりと、小さく爆ぜた。
帰れる。あの、薄暗い物置の扉の向こうへ。靴を逆さに履く、あの子のいる場所へ。いつでも。
俺は、何も言わなかった。
言えなかった、のかもしれない。帰れる、と言われて、すぐに「帰る」と立ち上がれない自分が、確かに、ここにいた。目の前で休んでいる二人と一匹がいて、立てなくなっている里の子らがいて、北の谷で母を探す手がかりを、初めて自分の口で言ったリリアがいる。その全部を、見なかったことにして、扉を開けることが——できなかった。
帰れるのに、帰らない。それは、もう、選んでいることだった。誰にも言わずに、毎晩、選び直していることだった。
解析は、それ以上、何も言わなかった。最後に決めるのは、いつも、俺だと、知っているから。
火が、また一つ、爆ぜた。
どれくらい、そうしていただろう。
膝の上のフィンが、ふいに、頭を上げた。
丸まっていた体を起こして、闇の一点を——俺たちが上ってきた、稜線の下のほうを、じっと見据えている。尾は、揺れない。耳が、ぴんと、立っている。
昼間の、あの、低い声で、フィンが鳴いた。
解析:「……ヨーヘイさん。気配が、まだ、消えていません」
ヨーヘイ:(撒いた、んじゃ)
解析:「いいえ。距離を取って、止まっているだけです。先ほどから、動いていません。——こちらが、休むのを、待っているのかもしれません」
火を、消した。
闇の中で、フィンの低い声だけが、続いていた。
その向こうに、何かが、いる。
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【第90話 リザルト&ステータス】
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▼ ヨーヘイのステータス(本話終了時点)
Lv:31(追っ手を撃破せず=振り切りのため据え置き) HP:504/504 MP:244/244
スキル熟練度(本話で動いたものだけ記載):
・《瞬歩》Lv2:28→29(岩棚への先回り・隘路での回り込み=倒すためでなく地形を取るための運用)
▼ 本話の収支
・収入:なし(山越えの道中・野営)
・支出:なし
・本話終了時手持ち:20,581枚(銅貨)
▼ 収納アイテム(前話からの変動分のみ)
・ヴェルナとニナからの餞別(塩漬けの肉・干した実)を山越えの携行食として一部消費
・小瓶一本(ルカが布に包んで継続携行=里で薄めて使う想定)に変動なし
・各魔石・装甲・厚皮・換金待ちの品は継続保持。レア鉱石はドンネ預かり
▼ 本話の出来事
・89末の続き=捉えた気配=王都に入る前と同じ匂いの追っ手が、距離を詰めて動き出す(数はおそらく二・フード・無言・依頼主不明=正体は分からないまま)
・リリアの「北の谷へ寄ってほしい」の言葉は、気配対応のため一旦保留される
・正面からの応戦(あの夜の襲撃の反復)を避け、霧と山道の地形で撒く方針に切り替え
・リリアが濡れた岩に光の膜を張って足場を作り(庇う魔法)、ルカの炎が隘路で目くらましの帯を引く(味の戻った炎は芯が太い)
・ヨーヘイは瞬歩で岩棚に回り込み、登ろうとした一人を斬らずに崩す→隘路で二本目の刃を受け流して間合いを切る→隘路を抜けたところで崩れ岩を肩で落とし、追っ手の口を半ば塞いで「時間」を稼ぐ=倒さずに振り切る
・追っ手は岩の山の手前で立ち止まり、無理に越えず霧に引いた
・岩陰の窪地で小さく火を熾し、餞別の塩漬けと干した実で携行食の一皿。追われている最中でも飯は旨い/干した実の甘みから蓮を思う一行/ルカが里の子らへの当事者の思いを漏らす
・夜・見張り中、解析がクローゼットの接続を確認=「いつでも、帰れます」→ヨーヘイは無言(帰れるのに、帰らない=毎晩選び直している)
・末尾:フィンが闇の一点を見据えて低く鳴く。解析「気配が、まだ、消えていません……こちらが休むのを、待っているのかもしれません」=撒いたはずの追っ手が、距離を取って止まったまま消えていない(未解決)
▼ ヨーヘイの考察
解析さん、記録、お願いします。
また、あの匂いでした。王都に入る前と、同じ。前に一度、正面でやり合った相手が、今度は間合いを測って、後ろをついてきました。襲うでも、声をかけるでもなく、ただ、見ている。何が目的なのか、誰に頼まれたのか、相変わらず、何も、分かりません。分からないから、斬りませんでした。守る人がいる細い道で、賭けには出たくなかった。だから、撒きました。霧と、崩れ岩で、半分だけ道を塞いで。倒したわけじゃない。それだけは、忘れないでおきます。
飯は、旨かった。追われている時でも、塩漬けを炙れば、脂は跳ねるし、腹は鳴る。それが、なんだか、可笑しかった。干した実を噛んだら、あの子の顔が出てきました。袋を勝手に開けて、口の周りを汚していた、あの顔です。
夜に、言われました。いつでも、帰れる、と。クローゼットが、繋がっている、と。……俺は、何も言いませんでした。帰れる、と知っていることと、帰る、と決めることは、別の話なんだと思います。目の前に、休んでいる二人と一匹がいて、立てなくなっている子らがいて、初めて自分の行きたい先を口にした人がいる。それを置いて、扉は、開けられなかった。
……それで、火を消した、すぐ後でした。フィンが、また、後ろを向いたんです。撒いた、と思っていました。でも、いなくなって、いなかった。止まって、待っている。何を、待っているんでしょうか。俺が、気を抜くのを、でしょうか。記録、お願いします。
最後まで読んでくれてありがとうございます。
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星ひとつでも、ヨーヘイの飯がうまくなります。
また次話でお会いしましょう。




