第35話『最初の一口』
張り詰めた空気の中、声が響いた。
「一次審査、通過候補を発表します」
誰も動かない。
視線も、呼吸も、止まったみたいに固まる。
「宇良彩葉」
「蔵本澪」
「相良仁花」
「畠山調」
「京極綺羅」
一拍。
ほんのわずかな間が、やけに長く感じる。
「紅野いちか」
――通った。
胸の奥が、ふっと緩む。
でも、その感覚は一瞬で消えた。
(こっからやけん)
誰も笑わん。
誰も声を出さん。
“入口”が終わっただけ。
次は――
“食われる側”。
審査員が席に着く。
白い皿が並び、ナイフとフォークが整えられる。
いちかは、自分の箱を見た。
揃っとる。
削りきった実。
でも――
(ここまでで、削られとる)
入口で削られた分は、戻らん。
それでも。
(味で返す)
最初に手が伸びたのは――
宇良彩葉。
迷いがない。
自然に、そこに行く。
(選ばされとる)
一口。
「……ああ、やっぱり」
その一言で分かる。
期待通り。
裏切らない。
最初から最後まで、“想像した味”がそこにある。
彩葉は箱の外から、静かに言った。
「ほら、もう勝っとる」
いちかは、唇を噛んだ。
次。
相良仁花。
ナイフが入る。
果汁がにじむ。
一口。
「……重い!」
審査員が笑った。
「これは……満足感がすごいな」
言葉じゃない。
体で分かる味。
腹に来る。
仁花がニヤッとする。
「そらそうやろ」
次に流れる。
蔵本澪。
一口。
「……ん?」
二口目。
「……変わるな」
三口目。
「後から……層が来る」
審査員の顔が、少しずつ変わる。
理解し始める顔。
澪は、目を逸らさずに言った。
「これは設計やけん」
味が、時間で変わる。
その“変化”ごと、作られとる。
次。
畠山調。
一口。
「……全部ちょうどいい」
別の審査員も頷く。
「減点がないな」
強さは見えない。
でも、崩れない。
どこにも引っかからない。
それが、逆に残る。
調が静かに言う。
「土は嘘つかん」
そして――
いちかの番。
ほんの少しだけ。
審査員の手が、止まった。
(入口で引っかかっとる)
一口。
「……甘い」
普通。
それだけ。
(……まだ)
いちかは、目を閉じた。
飲み込まれるのを、待つ。
一瞬。
何も起きない。
静か。
空気が、止まる。
(来い)
そのあと。
「……あれ?」
一人の審査員が、眉をひそめる。
もう一人も、動きを止める。
「……来る」
「遅れて……上がる」
「……消えないな、これ」
空気が、わずかに揺れた。
もう一口。
さらに、もう一口。
戻ってくる。
味が、戻ってくる。
いちかの胸が、静かに鳴る。
(届いた)
でも。
「ただ……」
一人の審査員が、言う。
「最初が弱いな」
「入口のインパクトが薄い」
はっきりとした言葉。
(分かっとる)
拳に力が入る。
足りない。
まだ、足りない。
そして――
最後。
京極綺羅。
誰も喋らない。
音が消える。
一口。
……沈黙。
誰も、すぐに言葉を出さない。
そして。
「……完成している」
小さく、誰かが言った。
「最初から最後まで……切れ目がない」
入口。
中盤。
余韻。
全部が、繋がっている。
どこも欠けていない。
いちかは、息を止めた。
(全部、ある)
(つながっとる)
自分に足りないものが、はっきり見える。
でも同時に――
自分に“あるもの”も、分かる。
“残る味”。
全員の試食が終わる。
いちかは、目を閉じた。
さっきの言葉が、残っとる。
「消えないな、これ」
胸の奥で、じんわり広がる。
(届いとるもんも、ある)
ゆっくり、目を開ける。
前を見る。
(“答え”を持ってきた)
審査員が、書類を手に取る。
「最終評価に入ります」
空気が、さらに重くなる。
誰も動かない。
時間だけが、静かに流れる。
いちかは、小さく息を吐いた。
「……残れ」
その声は、誰にも届かない。
でも確かに、自分の中に落ちた。
戦いは、まだ終わっていない。




