第32話『減る強さ』
朝のハウスは、いつもより静かだった。
ビニールをくぐった瞬間、紅野いちかは足を止める。
赤は、ある。
けれど――少ない。
「……減っとる」
ぽつりとこぼした声が、やけに軽く響いた。
しゃがみ込む。株元。
昨日まで付いとったはずの実が、土の上に落ちている。まだ白いまま止まった実、色づきかけて途中で終わった実。
指でつまむ。軽い。
生ききれんかった重さ。
「落ちとるねぇ」
後ろから仁花が覗き込み、何も迷わず株元の土を掘った。指を差し込んで、根を引き出す。
「……ああ」
短く吐く。
「選別、起きとる」
澪もしゃがみ込む。落ちた実と株を見比べて、眉を寄せた。
「水、切っとるよね。意図的に」
「うん」
いちかは頷く。
調がゆっくりと畝を見渡した。全体、そして足元。
静かに言う。
「揃えにいった結果やね」
誰もすぐには返さなかった。
「揃ういうのは」
調は続ける。
「同じ条件に立たせることじゃない。耐えきれる場所まで引き上げること」
少しだけ間を置く。
「そこに届かん個体は――外れる」
風が、通った気がした。
澪が落ちた実を見つめたまま、小さく言う。
「……もったいな」
その一言が、重かった。
彩葉は腕を組み、畝全体を見ている。
「商品としては減りすぎやね」
はっきりと言い切った。
「数がなかったら、入口で負ける」
正しい。
だから、痛い。
誰も反論しない。できない。
いちかは、手の中の実を見る。
白い。軽い。途中で止まった命。
拾うかどうか、一瞬迷う。
指が、ほんの少しだけ強くなる。
――置いた。
そっと、土の上に戻す。
「……これでいい」
短い声だった。
誰もすぐには何も言わなかった。
仁花が立ち上がり、パンと手を払う。
「なら、見るか」
澪も無言で頷く。
調は何も言わず、少しだけ口元を緩めた。
彩葉は一度だけ目を閉じて、息を吐く。
いちかは赤い実を一つ取った。
手に乗せた瞬間、重さが違う。
残っとる側の重さ。
「いくよ」
四人で一粒ずつ。
かじる。
――甘い。
まず、それが来る。
はっきりと、迷いのない甘さ。
澪が一瞬目を見開く。
「……揃っとる」
仁花が頷く。
「ブレんな」
だが、それだけじゃない。
飲み込む。
一瞬、静かになる。
次の瞬間――
「……来た」
澪が息を呑む。
喉を通った後から、ふっと何かが立ち上がる。
甘さとも違う、旨味とも違う。
でも確かに“もう一度来る”。
遅れて、広がる。
そして――消えない。
舌の奥、喉の奥、体の内側に、残る。
彩葉がゆっくりと目を開いた。
「……何これ」
言葉が、少し遅れる。
「入口じゃない……後から来る」
調が小さく頷いた。
「揃っとるけん、来るタイミングまで揃っとる」
仁花が笑う。
「外れたやつは、ここまで来れんかっただけか」
澪はまだ余韻の中にいた。
「消えない……」
小さく呟く。
「飲み込んでから……ずっとおる」
いちかは何も言わず、空を見た。
ハウスの向こう、朝の光。
でも頭の中にあるのは、あの色。
夕焼け。
遅れて来て、残る色。
「……味が答えやけん」
ぽつりとこぼす。
その時だった。
「ただね」
彩葉が現実に引き戻す。
「これ、数足りる?」
一瞬で空気が変わる。
誰もが畝を見る。
少ない。明らかに。
「出せても……ギリやね」
彩葉は冷静に言った。
「最悪、規定数届かん可能性ある」
沈黙。
強い。
でも、足りない。
質はある。
でも、量がない。
いちかはゆっくりと畝の間を歩いた。
落ちた実。
残った実。
どっちも、自分が選んだ結果。
立ち止まる。
振り返らない。
「……これで行く」
はっきりと言った。
「揃えたやつだけで勝つ」
迷いは、もうなかった。
減った分だけ、強くなった。
それを――信じる。
朝のハウスに、もう一度だけ静けさが戻る。
だがその静けさは、さっきとは違っていた。
削って残った、強さの静けさだった。




