第31話『止める位置』
朝。
ハウスは、静かだった。
ビニール越しの光が、やわらかく畝をなぞる。
葉は揃っている。
色も、ツヤも、完璧に見える。
――順調。
誰が見ても、そう言う。
⸻
いちかは、立ったまま見ていた。
しゃがまない。
触らない。
⸻
「……分からん」
⸻
小さく、こぼれる。
⸻
昨日までなら、分かった。
舌で、葉で、匂いで。
どこが良くて、どこがズレているか。
⸻
でも今は。
⸻
“見えているのに、分からない”
⸻
その違和感だけが、残る。
⸻
足音。
⸻
「見た目は優等生やな」
⸻
仁花が入ってくる。
迷いなく、畝にしゃがみ込む。
⸻
そのまま、土に手を突っ込む。
⸻
崩す。
⸻
一瞬で、表情が変わる。
⸻
「……昨日よりバラけとる」
⸻
澪も寄る。
同じように掘る。
⸻
「え……ほんとだ」
⸻
指先に絡む細い根。
白い菌糸。
⸻
「菌の付き方もズレとる…」
⸻
別の株。
⸻
まっすぐ深く。
⸻
隣。
⸻
横へ逃げる。
⸻
さらに隣。
⸻
ほとんど動いていない。
⸻
「同じ条件やのに…」
⸻
澪の声が揺れる。
⸻
彩葉が、畝の上から覗く。
⸻
「見た目は完璧やけどね〜」
⸻
いちかは動かない。
⸻
「それが一番怖い」
⸻
空気が、少し重くなる。
⸻
足音がもう一つ。
⸻
調。
⸻
無言で畝に降りる。
土をすくう。
握る。
⸻
「止めるっていうのは」
⸻
一拍。
⸻
「均一にすることじゃない」
⸻
全員が、止まる。
⸻
ほろり、と土が崩れる。
⸻
「“揃う場所を決める”こと」
⸻
その言葉が、静かに落ちる。
⸻
いちかの目が、わずかに動く。
⸻
調は続ける。
⸻
「根は自由に伸びる」
⸻
一拍。
⸻
「でも、人間は“終わり”を決められる」
⸻
沈黙。
⸻
仁花が腕を組む。
⸻
「で、どうすんの」
⸻
調は、指を三本立てる。
⸻
「方法は3つ」
⸻
「① 水を入れて揃える」
⸻
「強制的に寄せる。浅くなる」
⸻
「② 乾かして揃える」
⸻
「深さで揃う。弱い株は死ぬ」
⸻
「③ 何もしない」
⸻
「自然任せ。バラつきが固定される」
⸻
空気が割れる。
⸻
「②やな」
⸻
仁花、即答。
⸻
「①の方が安全やろ…」
⸻
澪、迷う。
⸻
「③はブランド的に怖いね〜」
⸻
彩葉、軽く言う。
⸻
全員、バラバラ。
⸻
いちかは、黙る。
⸻
畝を見る。
⸻
「……全部、正しい」
⸻
ぽつり。
⸻
誰も否定できない。
⸻
正解が、一つじゃない。
⸻
その現実が、重く沈む。
⸻
いちかはポケットからノートを出す。
⸻
父の字。
⸻
“リン酸で止まる”
⸻
指でなぞる。
⸻
「……止めきれてなかった」
⸻
小さく、言う。
⸻
父は、届かなかった。
⸻
止める場所を、決めきれなかった。
⸻
沈黙。
⸻
昼が過ぎる。
⸻
夕方。
⸻
ハウスに、誰もいない。
⸻
いちか一人。
⸻
ホースを持つ。
⸻
蛇口に手をかける。
⸻
止まる。
⸻
畝を見る。
⸻
昨日と同じ。
⸻
でも違う。
⸻
見えない下で、動いている。
⸻
手を、突っ込む。
⸻
初めて。
⸻
舌じゃない。
⸻
“手”で読む。
⸻
土の温度。
湿り。
粒の崩れ方。
⸻
根の方向。
⸻
「……深い方に行きたがっとる」
⸻
ぽつり。
⸻
顔を上げる。
⸻
遠くを見るように。
⸻
「なら」
⸻
一歩、踏み出す。
⸻
ホースを、下ろす。
⸻
蛇口から、手を離す。
⸻
水は、出ない。
⸻
静寂。
⸻
「弱いのは、置いていく」
⸻
その言葉は、小さい。
⸻
でも、重い。
⸻
背後。
⸻
「捨てたな」
⸻
仁花。
⸻
いつの間にか、立っている。
⸻
いちかは振り向かない。
⸻
「違う」
⸻
一拍。
⸻
「揃えにいった」
⸻
空気が変わる。
⸻
調が、わずかに頷く。
⸻
「いい判断」
⸻
澪が、不安そうに口を開く。
⸻
「でも…減るよ?」
⸻
いちかは、前を見る。
⸻
「減ってもいい」
⸻
一歩、踏み出す。
⸻
「味が揃うなら」
⸻
誰も、何も言わない。
⸻
風が、通る。
⸻
葉が揺れる。
⸻
水は入らない。
⸻
でも。
⸻
土の奥。
⸻
見えない場所で。
⸻
根が、下へ。
⸻
迷いながら。
⸻
選びながら。
⸻
揃い始める。
⸻
まだ、予感。
⸻
まだ、途中。
⸻
それでも。
⸻
確かに、動いている。
⸻
止めるとは、
与えないことじゃない
⸻
終わりを決めること
⸻
夕焼けが、ハウスを染める。
⸻
その色は、まだ土の中。
見えないまま、
形になろうとしている。




