第28話『優しすぎる土』
定植から、数日。
ハウスの中は、ほんの少しだけ温度が上がっていた。
朝の光がビニール越しに柔らかく差し込む。
畝は整い、苗は静かに並んでいる。
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葉は広がっていた。
色もいい。
ツヤもある。
――順調。
誰が見ても、そう言う。
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いちかは畝の前にしゃがみ込む。
指先で葉に触れる。
やわらかい。
張りがある。
「……元気やね」
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その一言に、嘘はなかった。
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少し離れたところで、仁花が腕を組んでいる。
何も言わない。
ただ、見ている。
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「……元気やな」
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同じ言葉。
でも、どこか引っかかる。
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澪が眉をひそめる。
「仁花さん?」
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仁花はゆっくりしゃがむ。
迷いがない。
指を土に入れる。
掘る。
崩す。
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根が現れる。
白い。
細かく、広がっている。
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――いい根。
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でも。
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仁花の手が止まる。
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「……浅い」
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空気が、わずかに変わる。
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澪も覗き込む。
「え……」
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確かに広がっている。
健康そのもの。
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でも――
下に、行っていない。
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地表近くで、横に広がっているだけ。
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調が近づく。
何も言わないまま、別の株に手を入れる。
同じように崩す。
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同じ。
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「……揃っとるね」
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その言葉が、妙に重く落ちる。
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いちかは動けなかった。
視線だけが根に吸い寄せられる。
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「なんで……?」
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仁花が低く言う。
「ひまわり、入れたやろ」
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いちか、はっとする。
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緑肥。
ひまわり。
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根を伸ばすための“道”。
菌根菌。
リン酸。
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全部、入れた。
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「道はできとる」
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仁花の声が続く。
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澪が静かに言う。
「菌もおる。リン酸もある」
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調が短く言い切る。
「環境は整っとる」
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一拍。
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「でも――行かん」
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風が、わずかに抜ける。
葉が揺れる。
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でも、根は動かない。
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いちかは土を掴む。
やわらかい。
軽い。
ほんのりあたたかい。
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「……なんで行かんと」
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調が足でそっと踏む。
沈まない。
でも、硬くもない。
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「止めとらん」
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一拍。
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「でも、促してもない」
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仁花が小さく笑う。
「飯が全部ここにある状態やな」
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澪が頷く。
「探す必要がない」
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彩葉は少し離れた場所から全体を見ていた。
畝のライン。
苗の高さ。
揃い方。
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「……綺麗すぎる」
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一拍。
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「動きがない」
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いちかは苗を見る。
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元気。
問題ない。
むしろ、いい。
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でも――
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「……戦っとらん」
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その言葉が、自分の中から出てきた。
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沈黙。
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頭の奥に、何かが引っかかる。
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父のノート。
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“味 → 菌 → リン酸”
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そこで止まっていた理由。
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いちかは、ゆっくり呟く。
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「……取りに行ってない」
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調の目が、わずかに細くなる。
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「そう」
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一拍。
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「困ってない」
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いちかの手が止まる。
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土を握る。
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この土は、いい土だ。
間違いなく。
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でも――
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「優しすぎる……」
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仁花が肩をすくめる。
「ええ土やけどな」
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澪が苦笑する。
「完璧すぎたね」
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いちかは立ち上がる。
畝を見る。
苗を見る。
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揃っている。
整っている。
乱れがない。
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「……どうする」
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初めての迷い。
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澪が口を開く。
「菌で引っ張る?」
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仁花。
「削って差つけるか?」
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彩葉。
「ストレス設計する?」
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どれも、間違いじゃない。
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でも――
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いちかは首を振る。
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「違う」
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しゃがむ。
苗の前に。
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手を置く。
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「これはもう、できとる」
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土は、できた。
環境も、ある。
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問題は――
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いちかの視線が、下に落ちる。
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見えない場所。
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「根ばい」
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全員が、止まる。
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風が通る。
葉が揺れる。
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小さな揺れ。
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でも、その下は――静かだ。
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いちかはゆっくり立ち上がる。
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目が変わっている。
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迷いは、消えていた。
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「取りに行かせる」
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その一言が、土の中に落ちる。
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まだ、何も変わっていない。
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でも――
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ここから、変わる。
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静かに。
確実に。
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根の中で。




