第27話『受け止める土』
朝。
ハウスの中は、まだ少し冷えていた。
外の光がビニール越しに柔らかく差し込む。
整然と並ぶ苗。
いつもと変わらない景色。
――ただ一つ違うのは。
いちかの後ろにある、あの山。
夕焼け色の堆肥。
昨日まで熱を持っていたそれは、今は静かにそこにある。
暴れず、騒がず。
ただ、在る。
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いちかはしばらくその場に立ったまま、何も言わなかった。
手袋をはめる。
スコップを持つ。
ゆっくりと一歩、踏み出す。
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「……入れるばい」
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誰に向けたわけでもない。
でも、その一言で空気が変わった。
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スコップを差し込む。
堆肥が、ふわりと持ち上がる。
軽い。
――けど、前とは違う。
落としたときの音が、少しだけ重い。
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畝の間へ。
ぱさり、と落ちる。
土と混ざる。
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もう一度。
すくう。
落とす。
混ぜる。
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ただそれだけの作業。
でも、誰も喋らない。
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仁花がしゃがみ込み、指で土をつまむ。
崩す。
少しだけ笑う。
「良か土やん」
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澪も隣で、静かに触る。
手の中で転がす。
鼻を近づける。
「菌、暴れてない」
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調は何も言わず、そっと一歩踏み込む。
足裏で土を感じる。
わずかに目を細める。
「……受け止める準備はできとる」
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彩葉は少し離れた場所から、全体を見ていた。
畝、苗、いちか。
その全部を一枚の絵のように捉えている。
「まだ“入口”は見えんね」
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作業は続く。
混ぜる。
均す。
整える。
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やがて――終わる。
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見た目は、ほとんど変わらない。
少し色が落ち着いたくらい。
劇的な変化なんて、何もない。
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いちかは、立ったままその土を見下ろす。
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「……何も起きんやん」
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ぽつり。
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仁花が、くくっと笑う。
「当たり前やろ」
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澪が続ける。
「これは“結果”じゃない」
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調が短く言い切る。
「まだ準備」
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いちかは何も言わない。
ただ、一歩踏み出す。
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足を置く。
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止まる。
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「……沈まん」
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前の土は、少し沈んだ。
ふわっと、逃げる感じがあった。
でも今は違う。
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柔らかい。
なのに――支える。
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逃げない。
受け止める。
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調が、その様子を見て静かに言う。
「それが“受け止める土”」
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一拍。
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「フカフカは、育つ土」
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少しだけ間を置く。
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「でも」
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視線を落とす。
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「残る味は、踏ん張れる土から出る」
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空気が、わずかに締まる。
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いちかは苗を見る。
並んだ葉。
同じ形。
同じ色。
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でも――
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「……静か」
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風が入る。
葉が揺れる。
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でも、暴れていない。
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澪が小さく呟く。
「奪ってない」
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仁花が続ける。
「支えとる」
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調。
「逃がさん」
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いちかはしゃがみ込む。
土を手に取る。
握る。
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目を閉じる。
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「強くない」
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一拍。
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「でも――残る」
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その感覚だけが、はっきりしている。
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澪が、少しだけ真剣な顔になる。
「ここからが本番」
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いちか、顔を上げる。
「何が?」
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澪は土を見る。
そして苗を見る。
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「これは“土”」
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一拍。
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「まだ“いちご”じゃない」
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言葉が、静かに落ちる。
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いちかはゆっくりと苗の前に移動する。
しゃがむ。
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指先で、葉に触れる。
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小さく、息を吐く。
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「……ここからやん」
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それは初めての感覚だった。
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ここまでは、自分で作ってきた。
削って、選んで、通して。
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でもここからは違う。
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任せるしかない。
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土に。
根に。
見えない何かに。
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いちかは立ち上がる。
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空を見上げる。
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ビニール越しの光が、少しだけ強くなっていた。
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「土は、できた」
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一拍。
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「次は――残させる」
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その言葉に、もう迷いはない。
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仁花が腕を組みながら言う。
「根が入るかどうかが勝負やな」
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澪も頷く。
「ここで全部決まる」
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調は何も言わない。
ただ、土を見ている。
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風が、少しだけ吹く。
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葉が揺れる。
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まだ、小さい。
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でも――
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ここから、全部が始まる。
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静かに。
確実に。
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土の中で。




