第26話『夕焼けは、残る味』
朝。
空気は澄んでいる。
昨日までの熱の名残が、わずかに土の上に漂っていた。
堆肥山は、もう暴れていない。
湯気はうっすら。
音もない。
けれど――
死んでいない。
いちかは、ゆっくりと手を差し入れる。
指先が沈む。
柔らかく、でも逃げない。
「……静かやん」
一拍。
指を握る。
「でも、おる」
そこに“何か”が確かにいる感触。
昨日までの勢いとは違う。
でも、確実に“残っている”。
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後ろで、澪がしゃがみ込む。
土を少しつまみ、鼻先に近づける。
「完成に近い」
そう言いながらも、首をかしげた。
「でも……判断は難しい」
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仁花も腕を組んで山を見る。
「よか堆肥やん」
にやっと笑う。
「でもな」
一拍。
「完成は人それぞれ感覚が違うから分からん」
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彩葉は少し離れて、全体を見ている。
「いっちゃんの言う“夕焼け”」
ゆっくりと口にする。
「まだ“言葉”のままやね」
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いちかは何も言わない。
ただ、堆肥を見る。
触る。握る。
確かに良い。
でも――
「……分からん」
ぽつりと漏れる。
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その瞬間。
いちかは、指で土をすくった。
「分からんのやったら」
ゆっくり、口元へ持っていく。
「舌で見る」
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「ちょっ――やめて!!」
澪が即座に声を上げる。
調も一歩踏み出す。
「それは違う」
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それでも、いちかの手は止まらない。
あと少しで触れる、その瞬間――
調が手首を掴んだ。
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「そのままは違う」
低い声。
いちかが顔を上げる。
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「未完成は、嘘をつく」
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一拍。
静寂。
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調は続ける。
「舌で見るなら――通せ」
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澪がすぐに動いた。
小さな容器を取り出し、堆肥をほんの少し入れる。
水を加え、軽く混ぜる。
しばらくして、上澄みだけを別の器へ移した。
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「これなら」
澪が言う。
「菌の“結果”だけ見れる」
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いちかは、それを受け取る。
透明に近い、わずかに色のついた液体。
見た目は、何も語らない。
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ゆっくりと、口に含む。
飲まない。
舌の上で、転がす。
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「……薄い」
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誰も動かない。
音もない。
ただ、待つ。
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一拍。
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いちかの眉が、わずかに動いた。
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「……来る」
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もう一度、意識を集中させる。
舌ではない。
喉の奥。
その先。
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「あとから……来る」
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息が、わずかに震える。
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「消えん」
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手で口元を押さえる。
目を閉じる。
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「……残る」
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静かに、言い切った。
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目を開ける。
堆肥を見る。
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「これやん」
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誰にも向けていない。
でも、確信だけがそこにある。
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「夕焼けは」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
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「派手やなか」
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「でも――消えん」
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沈黙。
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澪が、小さく震える声で言う。
「余韻が……ある」
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仁花が、口の端を上げる。
「地力も残っとるな」
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調は、短く一言。
「通ったな」
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彩葉は、静かに微笑む。
「“記憶になる味”やね」
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いちかは、もう一度だけその液体を見る。
そして、ゆっくりと息を吐く。
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「完成ばい」
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その一言に、迷いはなかった。
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父のノートが、頭に浮かぶ。
味。
菌。
リン酸。
そこで止まっていた、あのページ。
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「……その先」
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小さく呟く。
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「残るとこまで行った」
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誰にも聞かせるためじゃない。
ただ、自分の中で繋がった。
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外に出る。
空を見上げる。
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まだ昼の青。
でも、その奥。
確かに、あの色の気配がある。
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夕焼け。
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振り返る。
堆肥の色が、どこかそれに似ている気がした。
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いちかは、ゆっくりと言う。
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「これが」
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一拍。
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「私の夕焼けやけん」
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風が、少しだけ吹いた。
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もう、迷いはない。
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削った。
選んだ。
通した。
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そして――残った。
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答えは、もう出ている。
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「味は、消えた後に決まる」




