第25話『抜けすぎる空気』
朝。
空気はひんやりしているのに、堆肥山の周りだけがほんのり温かい。
いちかはその前に立っていた。
昨日、自分で言った言葉が頭の奥で反響する。
「夕焼けの堆肥」
まだ形はない。
でも、もう戻れない。
スコップを握る。
「……削る」
静かに、山に差し込んだ。
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崩れた断面から、いろんな色が顔を出す。
柿の橙。
巨峰の枝の茶。
米ぬかの白。
くん炭の黒。
その中に――
軽くて、やけに目立つ層。
籾殻。
いちかはしゃがみ込み、それを指でつまんだ。
さらさらと崩れる。
手のひらから、すぐにこぼれ落ちる。
「……軽い」
もう一度、握る。
今度は少し強く。
でも、やっぱり残らない。
「抜けすぎとる」
ぽつりと呟く。
夕焼けは、消えない色だ。
一瞬でも、残る。
でもこれは違う。
触れたそばから、逃げていく。
「……これやん」
決まった。
⸻
そこからは、地味な作業だった。
ただひたすら、選り分ける。
籾殻だけを、抜く。
柿の皮は残す。
枝も残す。
米ぬかも、くん炭も。
でも籾殻だけは、外す。
手で掬って、横に避ける。
また掬って、落とす。
単純で、終わりが見えない。
時間が過ぎる。
太陽が上がる。
汗が、ぽたぽたと土に落ちる。
それでも手は止めない。
「……全部いらんわけやない」
息を吐く。
「でも、今はいらん」
誰に言うでもなく、呟いた。
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数時間後。
山は、少しだけ姿を変えていた。
ふわっとした軽さが減り、どこか締まった印象になる。
いちかはスコップで全体を混ぜ直した。
ざく、ざく、と音が変わる。
前より、重い。
まとまる感触。
混ぜ終わり、手を差し入れる。
「……あれ」
一瞬、違和感。
昨日より――
ぬるい。
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「温度、落ちてる」
後ろから、声。
振り向くと、蔵本澪がしゃがみ込んでいた。
土を指先でつまみ、すぐに言う。
「回ってない」
相良仁花も顔を出す。
「勢い、死んだばい」
腕を組み、じっと見る。
「さっきまでの方が強かったな」
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いちかの手が止まる。
「……なんで」
昨日は、あんなに良かった。
熱もあった。
発酵も動いていた。
それを――
自分で削った。
「……間違えた?」
喉の奥が、少しだけ詰まる。
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畠山調が、無言で断面を崩す。
しばらく見てから、短く言う。
「当然」
いちか「……え?」
「空気、減らした」
一拍。
「燃えにくくなる」
⸻
澪が続ける。
「菌の“回転”は落ちる」
淡々と。
「酸素が減れば、動きは鈍る」
仁花が、くくっと笑う。
「でもな」
一拍置いて、顎で山を指す。
「それだけやなか」
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いちかは、もう一度手を入れる。
さっきと同じように。
ゆっくりと、握る。
――違う。
重い。
逃げない。
指の中で、まとまる。
さっきまでのように、さらさらと崩れない。
「……あ」
声が漏れる。
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「熱は弱い」
自分で言う。
「でも……」
もう一度、握る。
離しても、感触が残る。
手の中に、確かに“何か”がいる。
「残る」
⸻
顔を上げる。
「……逃げん」
さっきまでの堆肥は、触れた瞬間に消えていた。
でも今は違う。
手の中に、重さが残る。
記憶みたいに。
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その瞬間。
母の声が、ふっとよみがえる。
「飲み込んでからやないと、本当の味は分からん」
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いちかは、ゆっくりと立ち上がった。
堆肥を見る。
さっきより弱い。
派手さもない。
でも――
「……芯がある」
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空を見上げる。
まだ昼の色。
でも、どこかで気づく。
夕焼けは、燃え盛る瞬間じゃない。
「夕焼けって」
ぽつりと呟く。
「燃え尽きる前やなか」
首を振る。
「燃えた“あと”が残る時間や」
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視線を堆肥に戻す。
「……これやん」
小さく、笑った。
迷いは、もうない。
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澪が、静かに頷く。
「回転は落ちたけど」
一拍。
「設計には近づいた」
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仁花が肩を鳴らす。
「押し切る力は消えた」
にやっと笑う。
「でも“残る力”は出てきたばい」
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調は、短く。
「やっと減らしたな」
それだけ言って、もう興味がないように視線を外す。
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少し離れたところで、宇良彩葉が笑っている。
「いっちゃん」
優しく。
「やっと“選んだね”」
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いちかは、もう一度堆肥に手を入れる。
温度は穏やか。
でも確かに、生きている。
そして――残る。
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「味が答えやけん」
小さく言う。
一拍。
「残らん味は、いらんけん」
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空を見る。
昼の青。
でもその奥に、かすかな気配。
まだ見えない夕焼け。
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――削った。
弱くなった。
それでも。
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確かに、近づいた。
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「削ることで、初めて残るものがある」




