第23話『色を決めろ』
翌朝。
空気は冷たいのに、堆肥山のまわりだけ、ほんのりとぬるい。
紅野いちかはしゃがみ込み、ゆっくりと手を差し入れた。
ずぶり、と奥へ。
「……回っとる」
昨日よりも、はっきりと分かる熱。
芯がある。
表面じゃない。中が動いている。
指先に、確かな“生き物の気配”が触れる。
少しだけ、息を吐く。
けれど――
いちかは手を抜き、じっと山を見る。
湯気は出ている。
熱もある。
でも。
「……で、これ何になると?」
ぽつり、と漏れた言葉。
自分で作っているのに、答えられない。
そのとき。
「いっちゃん」
横から声がした。
宇良彩葉が、同じようにしゃがみ込む。
堆肥を一つまみ取り、指でほぐす。
さらりと落ちる。
一拍。
「それ、“誰の堆肥”?」
いちかは眉を寄せる。
「……え?」
彩葉は視線を外さない。
「仁花でもなか」
「澪でもなか」
「調でもなか」
静かに続ける。
「でも、“いっちゃん”でもなか」
その一言が、胸に刺さる。
いちかは何も言えない。
ただ、堆肥を見る。
――誰のものでもない。
いや。
“誰かの真似の混ざり物”。
そう言われている気がした。
⸻
足音が増える。
相良仁花が腕を組んで立つ。
「ウチは“赤”や」
短く言い切る。
「前に出る」
「太さも重さも、押し切る」
視線はまっすぐ。
迷いがない。
蔵本澪がしゃがみ込み、指先で土をつまむ。
「私は“白”」
くん、と匂いを嗅ぐ。
「後に残る」
「飲み込んでからが勝負」
小さく、でも確信を持って。
畠山調は静かに山を崩す。
中を見て、頷く。
「黒」
それだけ。
「受け止める」
「全部を支える」
余計な言葉はない。
宇良彩葉が笑う。
「私は桃」
指先で空をなぞる。
「最初に好きにさせる」
いちかを見る。
「入口で勝つ」
一拍。
「全部違うやろ?」
誰も否定しない。
違うから、強い。
違うから、成立している。
⸻
いちかは目を閉じる。
頭の奥に、あの言葉が浮かぶ。
――材料は隠しません。
――隠すのは思想です。
そして。
“いちごに何をさせたいか”
あの女の声。
京極綺羅。
いちかはゆっくりと目を開ける。
堆肥を見る。
柿。
巨峰。
米ぬか。
籾殻くん炭。
全部、“意味がある”。
全部、“正しい”。
でも――
「……欲張っとるだけやん、これ」
ぽつりとこぼれる。
仁花が少しだけ眉を上げる。
澪は何も言わない。
調は静かに見ている。
いちかは続ける。
「甘くしたい」
「香らせたい」
「回したい」
自分で並べて、笑う。
「全部やろうとしとる」
拳が、ぎゅっと握られる。
「そりゃ、ぼやけるやろ」
初めて、自分で否定した。
逃げずに。
⸻
そのとき。
背後から、母の声がする。
「いちか」
振り返る。
優しい顔。
「お父さんね」
少しだけ遠くを見るようにして言う。
「“最後に残る味”ばっかり言いよったよ」
いちかの呼吸が止まる。
「飲み込んでからやないと、本当の味は分からんって」
胸の奥で、何かが繋がる。
父のノート。
味 → 菌 → リン酸
途中で止まった理由。
――余韻の手前。
そこまで行って、届かなかった。
いちかは、もう一度堆肥を見る。
静かに。
深く。
「……飲み込んだ後や」
小さく呟く。
全員が、わずかに反応する。
いちかは顔を上げる。
「最初やなか」
首を振る。
「真ん中でもなか」
一拍。
「飲み込んだ後に」
拳を開く。
「もう一回来る味にする」
空気が、変わる。
迷いが消えた音。
⸻
彩葉が、ふっと笑う。
「それ、色にすると?」
いちかは空を見る。
朝の光は、まだ白い。
でも、頭に浮かぶのは違う色。
赤でもない。
オレンジでもない。
混ざる瞬間。
沈む直前の、あの色。
いちかは少し考えて、
「……まだ分からん」
正直に言う。
でも、続ける。
「でも」
視線を落とす。
堆肥。
湯気。
「沈む前の色」
言葉にした瞬間、
少しだけ輪郭が見えた気がした。
⸻
風が吹く。
湯気が揺れる。
朝の光の中で、
ほんのりと色が見える気がする。
黒(炭)
橙(柿)
茶(枝)
白(米ぬか)
混ざりきっていない色たち。
でも、それでいい。
まだ途中だから。
⸻
畠山調が、静かに言う。
「方向は出たな」
蔵本澪が頷く。
「菌、迷わなくなる」
相良仁花が笑う。
「やっと“火”になったな」
宇良彩葉が立ち上がる。
「入口、作れるね」
いちかは何も言わない。
ただ、堆肥を見る。
さっきまでの山と、
同じものなのに、
まったく違って見える。
「……まだ足りん」
小さく呟く。
でも。
口元は、少しだけ上がっている。
「でも」
手をもう一度差し入れる。
熱。
確かな熱。
「前よりええ」
その一言は、
昨日よりも、ずっと強かった。
⸻
空を見上げる。
いつかの夕焼けが、頭に浮かぶ。
赤と橙が溶け合う色。
終わりと始まりが混ざる色。
まだ遠い。
でも。
確かに――
近づいていた。




