第22話 『温度を上げろ』
数日後。
朝の空気は、ほんのりと湿っていた。
紅野いちかは、堆肥山の前にしゃがみ込む。
あの日、呼吸を始めた山。
あれから毎日、混ぜて、見て、触ってきた。
ゆっくりと手を差し入れる。
「……あったかい」
確かに、熱はある。
でも。
眉がわずかに寄る。
「……けど」
弱い。
あのとき感じた“生きとる”熱より、どこか物足りない。
湯気も、細く、頼りない。
いちか
「こんなもんなん……?」
不安が、少しだけ混じる。
そのとき。
「どれ」
低い声。
振り向くと、相良仁花が立っていた。
何も言わずに、堆肥に手を突っ込む。
ぐっと奥まで入れる。
数秒。
引き抜く。
仁花
「……ぬるいな」
その一言が、刺さる。
いちか
「ぬるいって……発酵はしとるやろ?」
仁花は肩をすくめる。
「しとる」
「でも弱い」
そのまま振り返る。
「こっち来い」
案内されたのは、仁花の堆肥山。
近づいた瞬間。
むわっとした熱気。
次の瞬間――
ボワッ
白い湯気が、勢いよく立ち上る。
いちかは思わず目を見開く。
「……全然違う」
仁花はニヤッと笑う。
「これが“回っとる”堆肥や」
いちかは無言で見つめる。
同じ“発酵”なのに、
まるで別物だった。
⸻
「ふーん」
小さな声。
蔵本澪がしゃがみ込む。
いちかの堆肥を手に取り、匂いを嗅ぐ。
くん、と鼻を鳴らす。
「悪くない」
その一言で、少しだけ救われる。
だが、すぐに続く。
「でもね」
澪は顔を上げる。
「菌、腹減っとる」
いちか
「……え?」
澪
「エサが足りないと、増えない」
言葉が、じわりと染みる。
その横で、畠山調が堆肥を崩す。
静かな手つき。
中を観察する。
調
「分解が遅い」
柿の皮が残っている。
枝も、形がはっきりしている。
調
「炭素が多い」
いちか
「炭素……?」
調
「燃えにくい材料」
短い説明。
でも、核心だった。
そこへ仁花。
腕を組む。
「要はな」
一拍。
「燃料足りん」
いちか
「燃料……」
仁花
「火はある」
(発酵は始まってる)
「でも薪が足りん」
その例えで、はっきりと分かった。
今の自分の堆肥は、
“火はついたけど燃え広がらない焚き火”。
⸻
澪が袋を軽く叩く。
「米ぬか」
ぱさっと音がする。
「これ、菌のご飯」
いちか
「入れたやん!」
思わず声が出る。
澪は首を振る。
「少ない」
少しだけ間を置いて、
「バランスが悪い」
いちかは言葉を失う。
混ぜた。
空気も入れた。
材料も選んだ。
それでも――足りない。
いちか
「……なんでや」
小さく呟く。
「ちゃんとやっとるのに」
視線が落ちる。
悔しさが、にじむ。
⸻
そのとき。
ふと、頭に浮かぶ。
父のノート。
『味 → 菌 → リン酸』
いちか
「菌……」
ゆっくりと顔を上げる。
「菌が動くには……」
自分の言葉で続ける。
「エサがいる」
澪が、少しだけ笑った。
「そう」
仁花も口元を緩める。
いちかは、米ぬかの袋に手を伸ばす。
掴む。
少しだけ、止まる。
入れすぎたらどうなる。
また失敗するかもしれない。
それでも――
「……入れる」
ばさっ、と振りかける。
白が、山に積もる。
仁花
「それでよか」
短い肯定。
その一言で、迷いが消える。
⸻
スコップを握る。
ザクッ。
混ぜる。
ザクッ。
空気が入る。
ザクッ。
炭と米ぬかが絡む。
四人も加わる。
土が動く。
山が崩れる。
空気が通る。
その中で――
じわり、と。
熱が変わる。
澪が呟く。
「きてる」
いちかは息を止める。
しばらくして、
もう一度手を入れる。
「……っ」
さっきより、明らかに熱い。
奥の方は、
はっきりとした熱を持っている。
いちか
「熱い……」
初めての、“強い発酵”。
⸻
夕方。
空が赤く染まり始める。
堆肥山から、しっかりとした湯気。
朝とは別物の山。
黒(炭)
橙(柿)
茶(枝)
白(米ぬか)
色が増えている。
混ざり合っている。
まだ、完成じゃない。
でも。
確実に“変わった”。
隣で、彩葉が笑う。
「いっちゃん」
堆肥を見ながら、
「ちょっとだけ“勢い”出てきたね」
いちか
「勢い……」
その言葉を、噛みしめる。
しばらく、山を見つめる。
そして。
「……まだ足りん」
でも、表情は前より明るい。
「でも」
少しだけ笑う。
「前よりええ」
ゆっくりと空を見上げる。
夕焼け。
赤と橙が混ざる色。
その色が、
ほんの少しだけ
堆肥に重なって見えた。
まだ遠い。
でも確かに、
近づいていた。




