第21話 『空気を入れろ』
朝。
空気は昨日より少しだけ柔らかかった。
紅野いちかは、まだ湿った土の匂いの残る空き地に立っていた。
目の前には、自分で作った堆肥山。
昨日、初めて“生きた気がした”山。
いちかはしゃがみ込む。
手を、ゆっくりと差し入れる。
「……あれ?」
眉がわずかに動く。
昨日あったはずの熱が、ない。
ぬるい。
いや、それすら曖昧だった。
「なんで……」
指先で奥まで探る。
けれど、返ってくるのは湿った重さだけ。
そのとき。
「止まりかけてる」
後ろから、静かな声。
振り向くと、畠山調が立っていた。
いちか
「止まりかけてるって……なんで!?」
調は何も言わず、堆肥に手を入れる。
ぐっと掴む。
そのまま軽く握る。
崩す。
ぼとり、と重く落ちる。
調
「酸欠」
短い一言だった。
いちか
「……酸欠?」
意味が分からないまま、山を見る。
そのとき。
「ふーん、やっぱりね」
白衣の小さな影。
蔵本澪がしゃがみ込む。
堆肥の匂いを吸い込む。
くん、と鼻を鳴らす。
澪
「発酵はね」
少しだけ顔を上げる。
「微生物の呼吸」
いちか
「呼吸……?」
澪は頷く。
「空気がないと」
少し間を置いて、
「腐敗になる」
その言葉が、ずしりと落ちた。
「おら、見せてみ」
荒い声とともに、相良仁花がバイクから降りてきて山を崩す。
ザクッ、と大きくスコップが入る。
中は、べっとりと重かった。
仁花
「ほらな」
塊を持ち上げる。
「詰まっとる」
調も頷く。
「空気の層がない」
いちかは言葉を失う。
自分が昨日、一生懸命混ぜた山。
それが、ただの“詰まり”だった。
調
「材料は悪くない」
いちかの肩がわずかに動く。
「でも」
その一言で、息が止まる。
「詰まりすぎ」
柿の皮が張り付いている。
米ぬかが湿って固まっている。
枝が埋もれて動かない。
調
「空気が通らない」
いちか
「……じゃあ、どうするん」
声が小さくなる。
そのとき。
仁花が軽トラに向かった。
荷台から袋をひとつ引っ張り出す。
ばさり、と開ける。
中から出てきたのは、
黒。
さらさらとした黒い粒。
いちか
「……それ」
仁花
「炭」
袋を傾ける。
さらさらと堆肥山に降る。
黒が、茶色に混ざる。
仁花
「もみ殻燻炭」
いちか
「炭で……何が変わると?」
仁花は少しだけ笑う。
「空気の骨になる」
黒い粒を指でつまむ。
軽い。
スカスカしている。
仁花
「これが隙間作るんや」
その横で、澪が嬉しそうに覗き込む。
「しかもね」
炭を一粒拾う。
「ここ、穴だらけ」
いちかが覗く。
細かい無数の穴。
澪
「菌のマンション」
いちか
「マンション?」
澪
「住む場所があれば、増える」
少しだけ笑う。
「菌が住める場所を作るの」
調が続ける。
「炭は腐らない」
黒い粒を崩しながら、
「だから空気の通り道が残る」
そして一言。
「土も呼吸する」
その瞬間。
いちかの中で何かが繋がる。
昨日の“止まりかけた熱”。
それは、息ができなかっただけ。
その空気を変えたのは、軽い声だった。
「いっちゃん」
宇良彩葉が、いつの間にか立っていた。
炭をひとつつまむ。
くるりと回す。
「黒、入ったね」
いちか
「黒……」
彩葉
「調の色」
いちかは山を見る。
茶色の中に
黒。
橙。
金。
ばらばらだった色が、
少しだけ混ざり始めている。
仁花がスコップを差し出す。
「ほら」
「混ぜてよかばい」
いちかは受け取る。
一瞬だけ、握りしめる。
そして――
ザクッ。
スコップが入る。
ザクッ。
空気が入る。
ザクッ。
黒が広がる。
四人も加わる。
土が動く。
空気が通る。
そのとき。
ふわっ、と。
白いものが立ち上った。
澪
「きた」
いちかは、息を止める。
恐る恐る、手を入れる。
さっきより、
はっきりとした熱。
いちか
「……あったかい」
調
「呼吸し始めた」
その言葉に、胸が熱くなる。
夕方。
空が赤く染まる。
堆肥山から、白い湯気が立っている。
黒い炭。
橙の柿。
茶色の枝。
色が混ざっている。
まだ、形にはなっていない。
彩葉が隣で言う。
「まだ色は決まらんね」
いちかは頷く。
「うん」
しばらく見つめる。
そして、ぽつりと。
「でも」
少し笑う。
「生きとる」
夕焼けが、
堆肥山を静かに染めていた。




