第20話 『混ぜるだけじゃ、堆肥は生きん』
朝の空気はまだ冷たかった。
紅野いちかは、畑の横の空き地に立っていた。
昨日までただの土だった場所。
そこに、いくつかの袋と山が並んでいる。
軽トラの荷台には、
籾殻。
米ぬか。
柿の皮。
柿の葉。
巨峰の剪定枝。
田主丸の匂いが、そこに集まっていた。
いちかは腕を組んで、それを見つめる。
「……材料は決まった」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
父のノートの言葉が頭に浮かぶ。
味
↓
菌
↓
リン酸
↓
色
最後の「色」は、まだ空白だ。
いちかはスコップを握った。
「やるしかないやろ」
籾殻の袋を破る。
さらさらとした黄金色の殻が、地面に広がる。
その上から、米ぬかをばら撒く。
白い粉が、ふわりと舞った。
次に柿の皮。
橙色の皮が、どさっと落ちる。
柿の葉も混ぜる。
最後に、巨峰の剪定枝。
足で踏みつけて、ばきばきと折る。
いちかはスコップを突き立てた。
ザクッ。
混ぜる。
もう一度。
ザクッ。
籾殻と米ぬかと柿と枝が、ぐるぐると混ざっていく。
土の匂い。
果物の匂い。
少し甘い匂い。
汗が額を流れる。
いちかは、息を吐いた。
「……こんなもん?」
気づけば、小さな山ができていた。
堆肥山。
初めて、自分で作った山だった。
だが。
思っていたほどの“何か”は感じない。
ただの山だ。
そのとき。
遠くからバイクの音がした。
ブォン、とエンジンが止まる。
「お、始めとるやん」
赤い髪。
相良仁花だった。
バイクを降りると、そのまま堆肥山の前に来る。
「ちょっと見せてみ」
いちかが何か言う前に、仁花は手を突っ込んだ。
ぐっと握る。
ぱらっと崩す。
しばらく黙って触る。
いちかは不安になった。
「……どう?」
仁花は肩をすくめる。
「材料は悪くないやん」
いちかの顔が少し明るくなる。
「やろ?」
だが仁花は続けた。
「でもな」
いちか
「?」
仁花は、堆肥山を指でつついた。
「堆肥は材料で出来るんやない」
いちか
「……え?」
仁花
「発酵で出来るんや」
いちかは黙った。
そのとき。
「ふーん」
後ろから声。
白衣の小柄な影。
蔵本澪だった。
澪はしゃがみ込み、堆肥の匂いを嗅ぐ。
くんくん。
少し眉を上げる。
「菌スターター入れてないよね?」
いちか
「スターター?」
澪
「発酵の種」
いちか
「……入れてない」
澪
「自然発酵?」
少し沈黙。
澪は小さく笑った。
「攻めるね」
さらにその後ろから足音。
静かな影が近づく。
畠山調。
黒髪が揺れる。
調は何も言わず、堆肥を一握りした。
ぎゅっと握る。
崩す。
指についた籾殻を見つめる。
そして一言。
「水分」
いちか
「?」
調
「多い」
いちか
「え」
調は淡々と言った。
「このままだと腐る」
いちかの顔が固まる。
その空気を壊したのは、軽い声だった。
「いっちゃーん」
振り向くと、宇良彩葉が立っていた。
相変わらずおしゃれな格好で、畑に似合わない。
彩葉は堆肥山を見るなり、くすっと笑った。
「いっちゃん」
「それ」
指を差す。
「まだ“ただのゴミ山”ばい」
いちか
「そんな!?」
仁花が腕を組む。
澪はメモを取り始める。
調は無言。
彩葉は笑っている。
いちかは顔を赤くした。
「でも土地の材料やろ!」
声が大きくなる。
「柿も巨峰も田主丸や!」
「うちの畑の味や!」
仁花
「材料はええ」
澪
「菌が動く設計ない」
調
「空気もない」
彩葉
「思想もない」
いちかは言葉を失った。
沈黙。
四人は、しばらく堆肥山を見ていた。
やがて仁花が言う。
「まあ」
「最初はこんなもんや」
澪
「失敗しないと分からないし」
調
「観察」
彩葉
「ドラマも必要やけん」
四人は、帰っていった。
夕方。
空が赤く染まっている。
いちかは一人、堆肥山の前に立っていた。
昼と、ほとんど変わらない。
ただの茶色い山。
いちかはしゃがみ込む。
手を突っ込む。
まだ冷たい。
「……色も何も分からん」
ぽつりと呟く。
スコップを握る。
もう一度。
ザクッ。
混ぜる。
ザクッ。
混ぜる。
籾殻が舞う。
柿の皮が見える。
枝がごろごろ転がる。
いちかは息を吐いた。
「味が答えやけん」
そのとき。
堆肥の奥から、ふわっと白いものが立った。
湯気。
ほんの少し。
いちかは手を入れる。
「あったかい……」
ほんのわずかな熱。
でも確かに。
何かが動き始めていた。
いちかは空を見上げる。
夕焼けが畑を染めていた。
けれど。
堆肥の色はまだ
ただの茶色だった。
それでも。
小さな発酵が
静かに始まっていた。




