第19話 土地の匂い
朝のハウスは、まだ冷たい空気に包まれていた。
透明なビニールの向こうから、やわらかな朝日が差し込む。
紅野いちかは、しゃがみ込んでイチゴの株を見ていた。
赤く色づき始めた実。
少し甘い香り。
いつもなら、ここで答えが出る。
だが今日は違った。
頭の中に、あの言葉が残っている。
――京極綺羅。
着物姿の絶対王者。
「材料は隠しません」
「隠すのは思想です」
いちかは顔をしかめた。
「思想って何……」
ぽつりと呟く。
「言いよる事、全然分からん」
立ち上がり、ハウスの外へ出る。
畑の横にある、空っぽの場所。
本当なら、ここに堆肥山があるはずだった。
だが、まだ何もない。
土だけが広がっている。
いちかは腕を組んだ。
「……何入れればいいん」
空を見上げる。
その時、頭の中に浮かんできたのは、ライバルたちの顔だった。
まず、相良仁花。
赤髪の元ヤン。
「見ろこの根っこ!」
あの豪快な笑い声。
彼女の堆肥は赤。
ソルゴー、セスバニア、蟹殻、エビ殻、米ぬか。
地力と根のための堆肥。
赤。
次に、蔵本澪。
白衣を着た小柄な微生物オタク。
「光合成細菌は裏切らない」
籾殻を菌に漬け込んで作る堆肥。
海藻、廃菌床。
菌の世界。
白。
そして、畠山調。
静かな土壌医。
「土が役者を決める」
籾殻、コーヒーかす、魚粉、ビールかす。
黒い堆肥。
土の色。
黒。
宇良彩葉。
センスの塊みたいな女。
「いっちゃん、イチゴはパックの花瓶ばい!」
バラの花と米ぬか。
香りと見せ方。
桃色の堆肥。
桃。
最後に――
京極綺羅。
熟香王。
竹パウダー。
八女茶。
米ぬか。
みかんの皮。
金柑の皮。
琥珀色の堆肥。
香りの芸術。
いちかは頭をかいた。
「……全部バラバラやん」
それぞれの堆肥。
それぞれの色。
でも。
ふと気づく。
「……材料」
全員、同じだった。
材料が
“自分の世界”。
仁花は地力。
澪は菌。
調は土。
彩葉は見せ方。
綺羅は香り。
いちかは、ぼそっと言った。
「……じゃあ、うちは?」
答えが出ない。
いちかは家に戻った。
居間の机の上。
古いノートが置いてある。
父のノートだ。
紅野家の先代。
いちご農家だった父が残したもの。
いちかはページをめくる。
そこには、太い字で書かれていた。
味
↓
菌
↓
リン酸
そこで終わっている。
いちかは指でなぞった。
「ここで止まっとる……」
父は、品評会で勝ちたかった。
だが、届かなかった。
畠山調に負けた。
悔しくて、毎日。
調のところに通って、イチゴ作りを教わっていた。
父も、いちかと同じだった。
舌で読む人間。
数字は苦手。
感覚の人。
いちかはペンを取った。
ノートに書き足す。
味
↓
菌
↓
リン酸
↓
色
書いて、止まる。
「……色って何なん」
まだ空白だった。
その時。
台所から、包丁の音が聞こえた。
トントントン。
いちかはのぞく。
母が柿をむいている。
山のように。
「また柿?」
いちかが言う。
母は笑った。
「余っとるけんねぇ」
田主丸の名産。
柿。
皮がどんどん皿に積もる。
いちかは呆れた。
「そんな食べきれんやろ」
母は肩をすくめた。
「昔から、お父さん畑に捨てよったよ」
いちかの手が止まる。
「……え?」
「土が肥えるって言いよった」
その瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
いちかは外に飛び出した。
畑を見渡す。
田主丸の景色。
巨峰の畑。
柿の木。
落ち葉。
風の匂い。
いちかは呟いた。
「材料……」
そして、笑う。
「もうあるやん」
仁花は蟹殻。
澪は菌。
調は土。
みんな、自分の世界。
なら。
自分は?
いちかは地面を踏みしめた。
「土地の味」
家に戻り、ノートを開く。
堆肥材料。
ペンが走る。
・籾殻
・米ぬか
・柿の皮
・柿の葉
書いて、止まる。
窓の外。
遠くに巨峰畑が見える。
冬剪定で切られた枝が、山になっている。
いちかは小さく呟いた。
「……ぶどう」
ノートに書き足す。
・巨峰の剪定枝
ペンを置く。
しばらく眺める。
「……色はまだ分からん」
でも。
材料は決まった。
いちかは外に出る。
空っぽだった場所。
これから堆肥山になる場所。
そこに立つ。
土の匂いがする。
いちかは小さく笑った。
「味が答えやけん」
その日。
紅野いちかの堆肥づくりが
初めて動き始めた。




