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ウォルバーと私  作者: 一ノ瀬きなこ(吉菜小)
第二章
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第29話 ぼくらのなつがおわる

一ヶ月も更新期間が空いてしまって申し訳ございません。

原稿データが一回飛んだのを遅れた理由にするつもりはありません。過去編をどうまとめるか、ひとえに悩んでいました。

きちんと、納得いく形になりました。それでは、はじまります。


夏終わったね。

だから、少年二人もそろそろね。


過去編は次話で終わります。レイクヤードで過ごした夏が終わっただけ。

でも次で、本当に過去編おしまいです。

「その呼び方は……」

 よくない事だと、露ほども知らなかった。


 自分の願いは高望みだったと知っただけ。

「ソフィアと、あなたに呼ばれたくありません……。夫だけに、許した名です」

 自分が周りの見えていない子供だったと学んだだけの話。

 彼女の華奢な拳がかすかに震えていた。




 その日は勉学の日だった。

 屋敷の西。四方の壁が本棚で構成された書斎の奥には、もう一つ書籍のための部屋がある。大きさは書斎と同じくらいで決して広くない。広くはないが、蔵書量はかなりのものだった。

 書斎のある区画は近づかない様にと言いつけられている。なぜなら、子供の足音や声はよく響く。

 それが一変、入室が許可されたのは、レクイヤード公がクラークの勤勉さに感心したからである。

 四脚の椅子が入れられた机が一組。二組置くにはいささか部屋が狭い。

 向かいにいたはずのクラークは、いつの間に次の読み物を取りに行ったまま、棚前の床に座り込んでしまった。パラパラとページをめくっては開いたまま書物を床に置き、手だけを棚に伸ばし遅れて視線を上げる。並ぶ背表紙の間をしばらく彷徨ってから別の資料を広げまた床に並べて読み比べる。それを繰り返すものだから、まあるく散らかしたおもちゃの真ん中に遊ぶ子供のようだった。

 俺はというと、分厚くはないが二冊をなんとか読み終え、三冊目に絵柄の多い本を選んで席に戻った。そこで集中力は途絶え、頰づえとともに窓の外へ顔を向けた。


 コツコツと木を叩く音が直に骨を震わせる。跳ね起きると、丸めた人差し指で机を鳴らした夫人がくすっと笑みを漏らしていた。机にできた小さい染みを慌てて袖で拭う。手元の図鑑を開き、読んでいる体裁を繕った所で、もう一つの足音が部屋に入ってきた。

 レイクヤード公はこちらを一瞬、振り向くだけで、クラークの傍に屈んだ。

「何か新しい発見はあったかな」

クラークは紙面から目を離さない。

「年貢の徴収が羅列された冊子が気になったんです。僕たまたま数年前、大雨だった時期を覚えていて。そこで丁度、税が滞っている様に思えて。天文観測の記録と照らし合わせたらやっぱりそうなんです。天候と税は響きあってる。でも、きちんと納めることができた村もあるから、なんでなんだろうって……えぅっ、レイクヤード公」

 すっかり入り込んでいた様で、後ろに不意に現れた屋敷の主に、数拍遅れて目を剥く。

「あっ、あ、ごめんなさい。勝手に床に、ごめんなさい。く、癖でつい」

「構わない、私にとっては君が何を見つけたかの方が優先される」

 促されて、目を泳がせていたクラークは控えめに別の資料を指差した。

「最初は本当に、天候と税の間に何があるかさえ解らなかった。でも、その前の年貢まで遡って調べると、大雨の時に影響を受けてない村はむしろ波がある。ふと、どこにあるんだろうって地図を開いたら、その一村は高台にあったんです。それから、大雨の時に税を納められなかった村の場所をひとつひとつ、地図と照らし合わせて行ったら、あれ……どこに行ったっけ。あ、あった。こ、これです。今度は山の中腹にあったり、川の近くにあったり。それで、前に読んだ土の本を思い出して、山は雨が多いと崩れることがあるって、それを『土砂崩れ』と呼ぶんだって。だっ、だから川についての本を探したら大雨の後、容器に水を入れすぎると溢れるのと同じように、川も溢れるんだって記述があって、それを『氾濫』と呼ぶって記述があって」

 最初は顔色を見ながら訥々と紡いでいた言葉も、いつの間にか捲し立てるそれになっていた。

「この短い時間でそんなに幅の広いことを」

 俺にとってはものすごく長い時間に思えた、本を読む人間は時間の流れが違うのかもしれない。

「次はどれを読もうと考えているかな」

「こ、これです」

「ふむ、それにはきっと君の知りたいことは載っていないだろう。これはどうかな」

「りょ、旅行記ですか」

「土地を知るには、実際に行くのが一番だが、それができないのなら、君はどうする」

 始まった議論は、理解できないこともなかったが、ついて行くには疲労が大きい。再び、窓の外に視線を投げた。陽の光に湖畔が煌めいている。

「読書は苦手かしら」

 柔らかく問われる。そっちを向いていないから、影の揺らめいてるのしか視界には映らない。

「別にそういうわけじゃ」

「分かるわ、彼と会うまで、私は自分のことを読書家だと思っていたもの」

 三歩だろうか、彼女が近づいた。

 座っていると、ちょうど目線が彼女の腰に合う。ここに来るまで女の人の腰に目が行ったことすらなかった。

「俺も、二冊ちゃんと読んだんですよ」

 振り向いて鼻に皺を寄せると、笑い声をあげてくれた。そうねと彼女も外に視線を向ける。

 彼女は離れ、公の耳まで寄った。手をかざし囁く様と、その距離にチリッと胸が焼ける。戻ってきた彼女は肩をすくめた。

「新鮮な空気を吸いに行きましょうか」


 乗馬のできない女性は珍しくはない。貴族階級なら尚更。女性の正装が男性の正装と異なり、股が割れていないのは移動手段を女性から奪うためではないかと聞いたことがある。ある種の拘束着なのだと。ただ、単に女性の方が外見に多様な変化を求めるだけだという反論もあろうが。現に馬に乗るのなら女性も二本に別れた穿き物に足を通し長靴を履く。

 彼女の馬に跨る後ろ姿を見て甦ったのは、女を物だと思っている親戚の聞くに耐えない講説と、それが帰ってからの母の苦い顔だ。初めて反芻したくらいの、それまで気にかけたこともない思い出だった。

「学舎でもクラークさんとは仲がいいの」

「ここに来るまで話したこともありませんでした」

「そうなのね、てっきり仲がいいのだと思っていた」

「むしろ、仲悪いと思います」

 山道は馬が揺れる。答えながら改めて思う。相手のことをどこか見下す関係が推奨されるわけがない。俺はクラークをどこかそう見ている。

「きっと貴方たちとても相性がいいわよ。必要に迫られているからといって、こんなに長い時間一緒にされて具合が悪くならない相手はいるようで少ないわ」

「仲良くした方がいいですか」

「ううん、思ったことをただ口にしただけ、おばさんの独り言よ」

 貴女はおばさんなんかじゃ、言おうとして遮られた。

「ここらで、馬を降りましょう」

 目的地があるといっていたのに、この辺りは、屋敷の近くの森とさして変わらない。ずっと上り坂であったから、標高は幾許か変わっただろうが。

 手綱を結わいていると、近すぎる距離に彼女がいた。

「わっ、何するんです」

 目元が布で隠されていた。ハンカチを結くのに、彼女の指先が頭に触れる。

「鼻をつまんで」

「え」

「鼻、つまんで、普通に行ったら意味がないの……意味がない、わけではないけれど、いいからお願い」

 何を言っているのか皆目見当もつかないが、言われた通り鼻を指で摘んだ。

「これ、口で息しなくちゃだからすごく間抜けです」

「気にしないで、貴方が涎を垂らしてうたた寝している顔を私は知っているのよ」

 それはますます気にする。多分今耳が真っ赤だ。

 手を引かれて、彼女の声に耳を傾けながら山道を踏む。木の根に躓き、笑い合いながら。

ふと足元が平坦になった。夫人の指が、自分の掌から離れる。

「十秒たったら目を開けて、手を鼻から外して」

 正直、十秒待てなかった。少し彼女が遠ざかる気配がしたから。怖くて。


 色と、香りだった。


 最初にあったのは。

 淡い紫色と、経験のない強い芳香。

 風に表面を撫でられてそよぐ。撫でられた所はいい匂いが溜まっているらしく攫われた波が鼻腔を浸す。混乱した。それは快感で。

「なんていう花……ですか」

「ラベンダーよ、綺麗でしょう」

 ひらけた土地だった。なだらかな丘陵。そこに同じ高さの低い花が敷き詰められたように咲いている。

「綺麗です」

 貴女と同じくらい。どこか、この花は貴女と似ている。

「この花の色、私の固有色なの。父が好きでね」

 その願いが届いたから、貴女はそんな風なんですか。

 城にも花が植えられている。しかし、ここまで美しさを感じたことはなかった。感動以外の何物でもない。

「元々、他には見られないくらい群生してたの、本来ブーケほどの塊でしか見つからないの。でもね、その上で時間をかけて少しずつ増やした。周りの人の力を借りて少しずつ。大変だったけどそれ以上の価値があるでしょう」

 思ったこと、何から何まで言葉にならなかった。

 花の中に入っていく彼女。ふわりと振り返った。楽しそうに笑う顔に、胸が苦しくなった。そう、締め付けられた。

 思いが溢れてしまった。

 雨が降ったら、川がそうなるように。

 抑えなくてはなんて発想がなかった。

 それより先に、滑り出ていた。

「ソ……」

 頭の中で遊びのように、ここ数日、呼ぶ練習をしていた。一人だとわかっていた時は、声にも出した。

 ほんの数日なのに、呼んでみたいと願ってしまうくらい、その名前は煌めいていた。

「ソフィア……」

 貴女と対等になりたいと、ただそれだけで。


 振り向き方は自然だった。むしろ、慣れた光景と錯覚するほどには。

 目があって、少しの間。彼女の顔から冬の引き潮のように笑みが消えた。きっと俺の中にあるものに気がついたから。

「その呼び方は……」

 そこまでよくない事だと知らなかった。彼女の瞳に浮かんだあれは、動揺、だったと思う。張り詰めた空気になった。呼ばなければよかったというような類の話ではない。自分の願いは高望みだったと知らなかっただけ。今、知っただけ。

「ソフィアと、あなたに呼ばれたくありません……。親の他には夫だけに、許した名です」

 自分が周りの見えていない子供だったと学んだだけの話だった。

 彼女の華奢な拳がかすかに震えていた気がした。

 こんなに悔しいことはなかった。なんで、俺は。この人とどうしたら。なんで。


「すごいんだ、文官の仕事を教えてもらった。僕が今日できたのはただの『気づき』に過ぎないんだよ。まあ、学者の仕事だよね、でも事務官は違う。それをどう『対処』するかが、問題なんだ」

 入ってくるなと言ったのに、俺の部屋でクラークは楽しそうに身振り手振りを交えながら語っている。

「でも公は仰ってくれた。今日の僕は、きちんとその入り口に立てているんだって」

「あのさぁ」

 苛立っていると伝わる声で言った。さすがに静かになる。

「わりぃ、黙ってくんないかな。ちょっと俺、今は聞けない」

 寝返りを打って、上掛けを抱き込む。

「グレイ……」

クラークはしばらく近くに立っていたが、静かに静かに部屋を辞した。

 その日は布団をかぶったまま、ずっとあの明確な拒絶を反芻した。


 それがあってから数日。もうじき学舎が始まってしまうからと、俺たちはあの湖の岸に佇む屋敷を後にした。


 それからだ。どんな女人に出会っても、何を話したとしても「違う」と思うようになった。秤に重たすぎるものを乗せた時と同じだ。

 針が、一番向こうからもう帰って来なくなっていた。もう何年も壊れたままで、修理しようとは、思わない。

夏の終わりといえば、森山直太朗さんの「おぎのおわり」ですよね。

解らない人はググるといいよ。

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