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ウォルバーと私  作者: 一ノ瀬きなこ(吉菜小)
第二章
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第28話 ぼくらのなつやすみ5

ちょっと、涼しくなってきちゃったね。昨日長袖着たよ。

そして、ぼくらのなつやすみも、そろそろ終わりです。

 温い肌色に包まれる浮遊感。薄布のようでいて、それでいて人肌の湯のようで。鳥肌がたち、体がぞわぞわと跳ねる、くすぐったさもある。しかしそれは、間違いなく快感。ひゅっと、息を止めた。

 ぬるついた、肌壁は迫り、俺は落ちていくような感覚を覚える。

「うっ……」

 腰が浮く。ぎゅっと、掴まれた。なんだ、これ、知らない。

 この色、この肌色、昨日見た。そうだ、夫人を水中で抱き上げた時、襟からこの色が見えた。あの湖の光景が立ち上がる。

 昨日は、そんな事なかったのに、自分の手が、襟と背の間に滑り込んだ。触った事、ないのに、滑らかで、暖かくて。我慢ができない。

「くっ……」

『エド、さわって……』

「あっ……」


 瞼を開く。異様な、今まで感じたことのない快感の残り滓。跳ね起きて、隣を見る。ベッドの上には自分一人で、腕の中に抱いているはずの人はなく、白いシーツと自分の腕だけ。夢の中では二人だったからこそ。

ひどい、虚無感に襲われる。そして。


夫人はそんなこと言わない、聞いたことなどない。夢の中で俺が作ったただの妄想。わかっているけど、本当に囁かれていないとなると、寂しかった。


 下半身の冷たさに顔が引きつった。漏らす歳ではもうないのに。でもただの排尿ならあの強すぎる快感はなんだったのか。下着を持ち上げる。

「し、白い」

 ドロッと鼻水に似た液体が下着と性器にへばりついている。

 ギョッとして、部屋の無人を確認するために見回した。このままここにいると、夫人は俺を起こしに来てしまう。血の気が引いた。鼓動がトクトクトクトク、速くなる。

 下着の汚れていない部分で、性器を拭い丸め込んだ。そして、急かされる様に着替える。

 汚れた布切れをひっ掴み、部屋を出た。


 大丈夫、大丈夫と自分をなだめる。短く切れる自分の吐息が鬱陶しかった。ディミトリアス兄から言葉だけだが聞かされたことがある。男は大人になろうとするときに、度々、夜魔に襲われることがあるのだと。大人になった証拠だからと。周りの大人に打ち明けて良いと。恥ずかしがる事ではないと。

 どうすればいいか、動揺しながら屋敷の中を歩く。朝は井戸端が一番込み合う時間だ。最高に恥ずかしいじゃんか。こんなの。

 自分の部屋のテラスから近い岸は開けていて、ダイニングからも丸見えだ。唸り声をあげた。なんで、兄上や父上がいないときにぃ。


 結局、昨日荷車が落ちた岸の低木の影で下着を洗った。俺、泣くのかな。もはや忌々しい布をつまんで、水の中で揉んだ。

 人目を盗み、自分の服が干されている辺りにさりげなく引っ掛けた。

そして何事もなかったかのように、公と二人黙々と朝食を摂るのだった。


「おいこら」

 ベッドの上で足をぱたぱたさせながら、読書に勤しむクラークを乱暴に呼びつけた。唐突さに飛び上がって、本を胸に抱き体を縮こませている。

「びっくりした」

「おい」

不遜な声を続けてかける。

「な、なんだよ」

 クラークが抱えるのは開拓史ではない。枕元に積まれた中にも開拓史は無いのを見ると、あんな分厚いのを、この短期間で読み切って次のを借りたようだった。目を合わせないまま口を開く。

「俺にダンス教えろ」

「人に物を頼む態度が……高圧的すぎるよ」

「お前、剣使える様になりたいんだろ、稽古つけてやるから、お前も俺に教えろ」

 返答は音にされなかった。なぜかクラークは飢えさえ感じさせる表情を浮かべていた。乾いた息を漏らし、口を開けていた。

「嫌ならいい」

 踵を返すと、クラークが背中をつかんだ。物理的に縋る手つきだった。背にクラークの重みと温みを感じる。

「頼む、俺に剣を教えてくれ」

 なぜ、こんな必死なんだか。だが、俺も背に腹は変えられない。夫人に嫌われないためには、今のままではいけないから。

 なんで今朝の夢に夫人が出て来たのかとか、夫人と目が合うと、なんでそらしたくなるのかとか、今の俺には分からない。それに、考えるのもしばらくやめる。

でも、確実に言えるのは、俺は夫人に嫌われたくない。いたずら以外で叱られるのも嫌だ。俺はあの人に好かれていたい。

 夫人の一番軽んじてはいけない思い出を、俺はガキの「俺の方が褒められたい」なんていう癇癪で踏みにじった。夫人に見直して貰える様に、ちゃんと変わらなくちゃ。一つ息を吸って縋るクラークを引き剥がす。

「だから、教えるって、その代わりお前は俺に」

「ダンスを教える。わかってる」

「取引な」

「賭った」


自由時間になるたび、外に出て模造刀を打ち鳴らす。

「だから、そうじゃ無い。剣先を上げると、籠手がガラ空きになんだろって」

 クラークの叩いてくださいと言わんばかりの籠手を模造刀で落とす。弾けるようないい音が森に響いた。

「いっつ……」

 防具をつけても痛いものは痛い。クラークが剣を取り落とした。土の上に膝をつく。

「もう痣がこんなに」

 籠手を外したクラークの手首には痣が、判の試し押しのように重なっている。

「当たり前だろ、痣を殴られたくなきゃそこを打たれない様にするしかない」

 稽古を初めてまだ幾日も経っていない。

「ほら、立て」

 模造刀を拾ってやると、大人しく受け取る。もう一度、構え直した。クラークはまだ、打ち込み前の挙動が大き過ぎて、しかも遅い。

「ヤッ!!」

 クラークの打撃を刃で何事もないように受け流す。息を付き、丹田に力を入れ直した。

「そんなんで骨肉切れると思ってんのか!!」

 受け止めたそのままを上に跳ね上げる。跳ね上げられてクラークがて体制を崩している隙に、上段に構え直した。間髪入れずに打ち込む。

「フンッツ!!」

 胴を打った。ダァアン!!!と重たく響く音が鳴る。クラークの体が刹那浮かされ、そのままへたり込んだ。

「ナイフじゃねぇんだ丁寧に引き切るんじゃない。剣は『叩き斬る』んだ。力がねぇと話になんない」

 振り回されても、今度は膝をつくことなく、両手で低く剣を構え直した。その姿勢をみて、俺はフッと笑みを見せる。

「剣士が体を鍛えるのは、見栄えのためじゃ無い。斬るのに必要だからだ。相手に競り負け無いのに必要だからだ」


日が沈んでからは、どちらかの居室で床を鳴らす。

「だから、そうじゃ無いって。グレイが身軽なのはわかるけど、女人はそんなに素早く動け無いだろ」

 男同士抱き合うなんて、どうかしている。でも他に方法もない。クラークの腰を支え、手をそっと握る。そして、息を合わせてステップを。カウントを数えながら、靴でテンポよく床を打った。

「相手を思い遣らないと。誰にでも同じステップを踏めばいいってわけじゃ無い。相手の人の背が低ければ、それだけ歩幅は狭いし、逆もまた然り」

 クラークの手を離して、自分の頭を抱えた。

「あーーー、俺には無理だよ。そんな、相手の顔見て合わせるみたいな」

 しゃがんで、開いた足の間に状態をうなだれた。

「できるよ、今まで一人っ子だった僕より、兄弟のいる君の方が、人間関係の構築は上手いはずだよ」

 励ましだろうが、痒いところに届いていない助言だ。

「そんなの、理論上だろ。実際は違うって」

 クラークも屈んで、顔を覗き込んでくる。

「君のお兄さんは人の心を推し量って、手を差し伸べるのが上手だった」

「兄上は得意だろうよ」

「そう、腐らないで。ほら、立てって。もう一回やろう」

 抱えられる様に、立ち上がらせられ、もう一度、組み合った。

「ワン、ツー、スリー……」

 唐突にノックもなく、ドアが開いた。

「失礼します、洗濯の終わったお召し物が……」

 ユリアがクルミのような真ん丸の瞳を、もっと大きく開けていた。

「あっ、違くて」

 クラークの声も聞かず、ドアの横に、服の入った籠をそそくさと置いて、彼女は急いで戸を閉めようとする。

「大変、仲がよろしようで」

 去り際の文句がお互いの耳に届く。

 もう、ユリアは部屋からさったのに、飛んで離れた。

「クソッ……」

 クラークの肩を理不尽に一発殴った。


 ホールで夫人の腰に手を添える。慌てずに、息を深く。

夫人は俺たちより背が高いくらいだから、歩幅は大きくとってもいい。ただ、早くてはいけない。あくまでも、ゆったりと。

滑らかに始めた。

 うまくいっている。少なくとも、今までとは何かが違う。

 その日は少し怖いくらいに息があった。自分の経験を超えて、自分のイメージ通りに体が舞う。

 ターンで夫人が大きく反った時、俺も彼女も一瞬中に浮かんだ気がした。ほんの少しの間だけ、二人以外の全てが世界からなくなった心地。二人だけの世界になった。彼女の息を吐く、低くて伸びた音が鼓膜を震わせ、手のひらには薄くて柔らかい背の肉が力んでいるのを感じる。

 頭で考えていなかった。今度こそと、心の何処かにあったのかもしれない。

 いつのまにか、俺は彼女の腰に両手を添えていた。あの時とは違う。何も合図していないのに、夫人が俺の肩に手を乗せる。持ち上げているつもりはないのに。力が入っているわけではないのに、高さもあの時より高く。ぐるっと、夫人が宙を舞う。顔の横につかれた夫人の手で視界が彼女でいっぱいになる。彼女の影が俺に落ちた。

 夫人の靴がコツンと床に着く。まだ、終わっていないのに、興奮で呆然として、立ち尽くしてしまった。気づけは、随分自分の息が上がっている。彼女も少し驚いた様に、肩を上下させていた。

 側から見ていなくても分かる。今のは。

 彼女も息の上がったままで、彼女の興奮が冷めていないはずなのに、それなのに、ふわっと夫人の柔らかな手が僕の頰をつつんだ。優しさと気遣い。彼女自身のことより、俺を気遣っている。耳裏から顎先までを掬うように、くすぐられる。

「とても……すてき」

 肌かけのように、柔らかい声と手のひら。


 ああ、駄目だ。

 添えられた手を上から包んだ。首を傾げて頰を押し当てる。


 俺は、この人が好きなんだ。

次は少し短くなるかも。

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