第19話 剃刀
「アンナマリア様、御髪が」
それに気がついたのは、入城から数月が経ち、生活にもある程度落ち着きが見られるようになった頃。
ヘルベルトもトシュテンも職務に忙しく、差し当たっての脅威を鑑みた優先順位から、アンナマリア様への情報聴取は後回しにされたまま。もはや、放置に近い状況になっていた。もとより、ただの少女に何かを起こせる環境にこの城はない。
いつもと同じく、髪を梳かしていた時、やけに色の抜けた箇所が見切れた。
「何かしら」
振り向くことなく、澄んだ声だけが届く。
「御髪の色が、抜けているような」
元々、白に近いブロンドの髪だが、あきらかに色の薄い髪が混ざっている。絹糸の様な手触りこそ変わりはない。普通白髪なら太さが変わるはずだ。どう伝えていいものかと口篭る。
「言いなさい、その程度で罰しません」
促されて、ようやく告げた。
「白髪かと、ただ他の髪と同じ様に細くて柔らかい」
やはり、ただの女の子である。肩がぴくりと跳ねた。外見については気になるのだ。髪は女の命とよく聞く。
「一本、抜いて見せてちょうだい」
「しかし」
「いいですから」
押し切られる形で、小ぶりな後頭部に、自分の骨ばった男の手を差し込んだ。一本を掬い、指にくるりと巻きつけ、引く。ぷつっと感覚が指に伝わってきた。伸びてきた手に、抜いた髪を手渡す。
じっと指にある髪を見つめる彼女の肩は薄い。
「ツケですね」
しばらくしてから、不意に呟いた言葉には嘲笑が混ざっていた。
髪をいじる彼女の縦に長い爪には横に線が刻まれている。これはノースで奴隷爪と呼ばれるものだ。ものが食えず、体に栄養が足りなかったり、睡眠が著しく足りていない人間に現れる症状だった。今は食事をきちん採っているにもかかわらず、数ヶ月前の摂食拒否と今も続く、深く眠れないという状況が今になって体に現れていた。
できる限りの配慮をしたとしても、彼女の体は癒されることなく、削られるばかりなのだと、思い知らされる。彼女の身の回りの世話を仰せつかっている自分が、一番何かをして上げられる立場であるのに。トシュテンに彼女の監視を命じられているとは言え、痛めつけたいとは毛頭思わない。彼女と妹は歳が近かった。
奴隷たちは大部屋でごろ寝が常であるが、自分はアンナマリア様の監視をすることから、彼女の部屋から続く従者部屋で寝起きしている。部屋を抜け出ようとしたり、おかしな物音に気がつける様にである。
「兄さんはさ、一人で寝るの寂しくないの」
ここのところ、隙あらば、この部屋に入り浸るようになったニーナがベッドに腰掛ける。ベッドなど、シーツを掛け替える時にしか触れない。腰掛けることや、ましてや寝ることなど、奴隷の身分には夢のまた夢なのである。
「女衆に比べて、男は臭いし暑苦しいから、寂しいよりは快適になったかな」
いいなぁ、と呟き、前掛けから紙包みを取り出した。ちらりと見えた。紙の質の良さに嫌な予感がする。我々は、褒美をもらえる立場にない。
「ニーナ、それはなんだ」
「え、兄さんの支えてるお姫様が、侍女を介してくれたのよ。兄さんにいつも世話になってるからって。いいご主人様に巡り会えてよかったね」
包みを解く手を見て、悪寒が走った。家族を守ろうとする勘。反射的に手が出た。
「ニーナ、離せ」
手が届く前に、妹の指から血飛沫が弾けた。
「いっ」
落とされた包みを拾い上げると、剃刀が高い音をたてて落ちた。心当たりに血の気が引く。何をするつもりなのか、自分の立場を嫌という程知っているのではなかったのか、あのお方は。
「ニーナ、すぐに仕事に戻りなさい。俺から会いに行くから、お前からここに来ないように」
自分の声とは思えない、冷えきって震えた音が出た。
奴隷の間では言われている。我々は巻き込まれたら、もう終わりなのだ。識別されたら終わり。気に入られても、嫌われても、幸はそこから消えるのである。
浴室に早足で向かう。無礼を承知で躊躇なく、押し入った。
奴隷侍女たちは驚いたように、声を上げる。騒がしさに、浴槽の中で、アンナマリア様が振り向いた。
「騒ぐことはありません。城に入るまでは、ルヒトが毎日私の体を洗っていたの。これが日常だったのよ」
自分の怒った様子に驚きもせずに、アンナマリア様は微笑みを浮かべていた。侍女たちを人払いする。侍女にも湯はかかる。湯浴み手伝いの薄手の衣は、肌に張り付いて肌が透けて見えてしまう。彼女たちに悪いことをした。
「妹が怪我をしました」
怒りをそのままに声を上げると、恍けたように首を傾げる姫君。
「そう、奴隷の仕事は大変そうだものね。怪我など日常茶飯事ではなかったかしら」
ちゃぷん、とアンナマリア様が手で湯を掬う。
この辺りは水が綺麗で豊富なことから、石造りの大きな浴槽にたっぷりと湯を入れる。縁に近づいた彼女は、いつもの品のある所作らしからず、顎杖をついた。
震える拳を握りしめて、言葉を絞り出す。
「あなたの行動をトシュテン様に報告してもいいのですか、ノースの人間を痛めつけたと」
震える声で、少女に問う。これは脅しだった。なのに。
「あら、奴隷は人間かしら、家畜につまづいても罪にはならないでしょう」
湯気が立ち昇り、お互いの顔を遮る。彼女の口元だけ、強調された様に目に入った。
「言いたいことを言ったらいかが、発言を許しましょう」
ゆったりとした口調に、怒りが増した。
「妹に手を出さないでいただきたい」
奴隷が意見を述べることは許されない、しかしニーナは唯一の家族だ。他に自分が所有するものはない。それ故に「大事」と言う気持ちの比重が重くなる。面で支えるのと、点で支えるのは違うのだ。
「ニーナは、妹は、私の持てる全てだ。あなたが何をしようとしているかはわからないが、とても嫌な予感がする。その企みに、妹だけは巻き込まないで欲しい」
「それだけ」
急に、言葉の温度が下がった。不意に、恐怖を感じる。彼女はただ、言葉を発しただけだ。なのに、なぜ歳上かつ、男の自分が恐怖を感じたのか。
ザバッと音がなる。水を孕んだ足音が近づいてきた。
「剃刀は必要なものだから、どんなに規制しても、トシュテン様に会う前なら支給されるわ。身だしなみを整える必要があるもの」
一歩、また一歩と水音が迫る。
「たかがカミソリでも、首に当てて引けは大事になるわね」
彼女の驚くほど白い足が視界に入った。
「私が直接手を汚さない方法もあるのよ。しかも、そちらの方が確実で、あなたの妹への被害は甚大なの」
ふふ、と柔らかい笑い声が浴室に反響した。
「廊下であなたの妹とすれ違った時に、粗相があったとトシュテン様にご報告申し上げましょう。ヘルベルト様でも人質の姫と、奴隷ではどちらに罰を与えるかは迷わないでしょう。いくら私のことが憎くてもね」
湯で温まった細い指が私の顎を掬った。美しい肢体と、美しい細面が私を覗き込む。この人はどこまでも均一な見た目をしている。いつものように伏せた目蓋から、長くて透けた睫毛が伸びている。
「粗相が私の怪我に繋がろうものなら、あなたの妹が殺されても仕方ないわね。棒で殴られ続けるんでしたっけ」
私は膝を付き、こうべを垂れた。
「お願いです」
「そう、頭を下げることで何かが成せると思ってるの。美しい世界ね。彼女の名前はニーナ、だったかしら」
涙腺から溢れ出る。
「何を差し出せば、何を差し出せば、妹を救っていただけるのですか」
懇願だった。きっと本気で行動に移す。それだけの行動力があってもおかしくない。彼女の目がそう告げていた。彼女も命の保証がされない日々を過ごした人だ。そんな人間の行動は箍が外れる。できないことが、できるようになってしまう。
「そうね」
私の脇をすり抜けた彼女は。洗い場の腰掛に腰を下ろし、細く長い脚を組んだ。
「私に忠誠を誓いなさい、何をしようとも、トシュテンに漏らすことなく、ヘルベルトにも漏らさず、ただ私に仕えるの」
振り向いた私は、また床に頭を擦り付けた。
「誓います。私は貴女のために全てをする」
考える余地もなく発していた。
言葉がかけられないことに、刻々と不安が募る。汗が伝って落ちた。浴室の湿気か、自分の冷や汗かはわからない。
「いいわ、おもてを上げないさい」
弾かれたように、視線を彼女の方に向ける。薄い唇が弧を描いていた。いつの間に、この人はか弱さを捨てたのだろう。悠然と微笑むその様子は、今さっき人を脅した少女のものではない。
濡れた脚を組み替えて、告げた。
「今日はあなたが私の体を洗いなさい」
そして、髪を片側に寄せ、彼女はこちらに陶器の様な腕を伸ばした。
「下手だけれど、一番安心できるわ」
私は床に擦り付けていた重たい頭を持ち上げ、ずるずると立ち上がった。震える、手でスポンジを取り、水を含ませ、肌触りも陶器の様な肌に滑らせた。
「あなたは私を傷つけられないもの」
アンナマリア様が日本の昭和に生まれてたら、家計を支えるためにオーディション受けて、正統派アイドルとして確固たる地位を築いた上で、純朴派の若手ニーナに、アンナマリアさんのファンからカミソリレターが届く。




