8.笑顔の裏側
黒羽家で働き始めて八日目。
朝。
「おはよー!」
明るい声とともに、三男・紫音がリビングへ飛び込んできた。
金色に輝く髪。
青く澄んだ瞳。
百九十センチの長身に、モデルのような均整の取れた体つき。
世界的DJ。
双子ユニットのメインボーカル。
兄・玖音とのYouTubeチャンネルは登録者数一億人を突破し、世界中にファンを持つトップクリエイター。
誰もが憧れるスーパースターだった。
それでも本人は気さくで、人懐っこい。
幼い頃からお笑い芸人に憧れ、人を笑わせることが何より好きだった。
難関大学経営学部へ進学したあとも、自ら関西のお笑い養成所へ通い、話術や笑いを磨いた。
DJも。
アイドルも。
YouTubeも。
ライブMCも。
すべては、人を笑顔にするため。
その思いだけは、昔から変わらない。
「おはようございます、紫音さん」
「おはよう、凛ちゃん!」
屈託のない笑顔で手を振る。
その笑顔だけで、食卓の空気がぱっと明るくなった。
「今日も朝からええ匂いやなぁ」
「ありがとうございます」
「朝ごはん、めっちゃ楽しみにしててん」
嬉しそうに席へ着く。
「今日は収録?」
玖音が尋ねた。
「せや」
「午前はバラエティ番組」
「午後はライブの打ち合わせ」
「夜はDJイベント」
「その後は動画編集の打ち合わせ」
太音が苦笑する。
「相変わらず忙しいな」
「世界中の人を笑顔にせなあかんからな」
紫音は冗談めかして笑った。
その笑顔は明るかった。
けれど、その裏で誰よりも努力を重ねていることを、兄弟たちは知っていた。
「だから紫音のMCは世界一なんだよな」
太音が笑う。
「ライブでも収録でも、紫音がおるだけで空気変わるもんな」
玖音も小さく頷いた。
「話術もマーケティングも天才だからね」
「まあな!」
紫音は得意げに胸を張る。
その姿を見て、凛も思わず笑みを浮かべた。
(本当に、人を笑顔にすることがお好きなんだ)
***
昼過ぎ。
「ただいまー!」
仕事を終えた紫音が帰宅した。
玄関には、いつもと変わらない明るい笑顔。
「おかえりなさいませ、紫音さん」
「ただいま、凛ちゃん!」
凛はそんな紫音へ、穏やかに微笑んだ。
「今日も一日、本当にお疲れさまでした」
その一言に、紫音は少し目を丸くする。
「ありがとうございます」
「今日も、たくさんの方へ笑顔を届けられたのですね」
「……まぁ、それが仕事やしな」
照れくさそうに頭をかく。
凛は静かに頷いた。
「朝からテレビ番組に、ライブのお打ち合わせ、DJイベントのお仕事まで、本当にお忙しい一日でしたね」
「皆様を笑顔にするお仕事は、とても素敵だと思います」
「きっと、お身体も心も、お疲れになられたのでしょうね」
その言葉に、紫音は少し驚いた。
頑張っていることを当たり前だと思わず、一つひとつ見てくれている。
そんな人は、あまりいなかった。
「……ありがとう」
凛は穏やかな表情のまま続ける。
「少しだけ、お身体の調子を伺ってもよろしいでしょうか?」
「え?」
「お声が少しかすれていらっしゃいます」
「それから、笑顔はいつも通りですが……少しだけ肩に力が入っているように見えました」
「喉のお疲れや、お身体で気になるところはありませんか?」
責めるような口調ではない。
体調を決めつけるのでもない。
一緒に今日一日を振り返るような、優しい問いかけだった。
紫音は思わず苦笑する。
「……そんな分かる?」
「少しだけ、喉が疲れてるかも」
「今日は結構しゃべったし」
テレビ番組でも。
動画撮影でも。
ライブの打ち合わせでも。
一日中、笑い続けていた。
「教えてくださってありがとうございます」
凛は安心したように微笑んだ。
「少々お待ちください」
数分後。
凛は湯気の立つカップを両手で大切そうに持って戻ってきた。
「お待たせいたしました」
「はちみつと生姜を入れたハーブティーです」
「喉を使われた日に良いと祖母から教わりました」
紫音はカップを受け取り、一口飲む。
優しい甘さと爽やかな香りが、少し疲れた喉へゆっくりと染み渡っていく。
「……うま」
思わず力が抜けたように笑う。
凛はその表情を見て、ほっとしたように微笑んだ。
「よかったです」
「今日は本当によく頑張られましたね」
「だからこそ、お身体を休ませる時間も大切になさってください。」
「頑張ったお身体を休ませることも、明日も笑顔でお仕事を続けるための大切なお仕事だと、祖母から教わりました」
「紫音さんが元気でいらっしゃるからこそ、また明日もたくさんの方を笑顔にできます」
その言葉に、紫音は返事ができなかった。
(俺が休むことも……仕事のうちなんか)
そんなふうに考えたことは、一度もなかった。
今まで何万人、何億人もの人へ笑顔を届けてきた。
ライブでは歓声が響き。
テレビでは笑いが起こる。
動画を投稿すれば、一億人もの登録者が喜んでくれる。
それが嬉しかった。
だから、自分は笑い続けた。
疲れていても。
喉が痛くても。
「笑顔にする側」が弱音を吐いてはいけないと思っていた。
けれど。
今日初めて、
「よく頑張りました」
と認めてもらえた。
「少し休んでもいい」
そう言ってもらえた。
胸の奥に張りつめていた何かが、ふっとほどけていく。
「……ありがとう」
自然と、その言葉が口からこぼれた。
凛は嬉しそうに微笑む。
「どういたしまして」
「少しでもお力になれたなら嬉しいです」
紫音は照れくさそうに笑いながら、もう一口ハーブティーを飲んだ。
その温もりが、喉だけではなく心まで温めてくれるようだった。
***
夕方。
少し休憩を取った紫音は、リビングへ戻ってきた。
朝よりも表情が柔らかい。
「だいぶ楽になったわ」
「それはよかったです」
凛も安心したように笑う。
その様子を見ていた玖音が口元を緩めた。
「紫音」
「今日はちゃんと休んだんだ」
「凛ちゃんに言われたからな」
「素直じゃん」
「……まぁ」
照れくさそうに頭をかく紫音を見て、太音たちも思わず笑う。
「なんやろな」
紫音は少し照れながら呟いた。
「凛ちゃん見てると」
「ちゃんと休まなあかんって思えるねん」
凛は不思議そうに首をかしげる。
「私、何かいたしましたでしょうか」
「それが分からへんから不思議なんや」
紫音は苦笑した。
「でも、不思議と安心する」
その言葉に、凛は少し照れくさそうに微笑んだ。
***
夜。
自室へ戻った紫音は、ソファへ腰掛けながら今日一日を思い返していた。
世界中には、自分の笑顔が好きだと言ってくれる人がいる。
ライブでは何万人もの歓声が響き。
テレビでは笑いが起こり。
動画には世界中からコメントが届く。
そのすべてが、大切な宝物だった。
だからこそ、自分は笑顔でい続ける。
誰かを笑顔にするために。
けれど。
凛は違った。
肩書きでも、人気でもない。
黒羽紫音という、一人の人間を見てくれた。
頑張っていることを認めてくれて。
体調を気遣ってくれて。
「休んでもいい」と言ってくれた。
「……変な子やな」
思わず笑みがこぼれる。
その笑顔は、誰かを楽しませるために作った笑顔ではなかった。
肩の力が抜けた、本当の笑顔だった。
黒羽家へ来て、まだ八日。
それでも――
いつも誰かを笑顔にしてきた青年は、
初めて、自分もまた笑顔をもらっていいのだと知った。




