7.支えるキャプテン
黒羽家で働き始めて七日目。
朝。
黒羽家専用のトレーニングルームには、爽やかな朝日が大きなガラス窓から差し込み、隣接する室内プールの水面がきらきらと光を反射していた。
広々とした空間には最新鋭のトレーニングマシンが並び、壁一面の鏡には、一人の青年の姿が映っている。
「……九十八、九十九、百」
最後の一回を終えると、太音はゆっくりとダンベルを床へ戻した。
上半身には何も身につけていない。
世界最高峰リーグで戦い続けるために鍛え抜かれた肉体は、まるで彫刻のようだった。
広い肩幅。
分厚い胸板。
太く引き締まった腕。
無駄な脂肪のない腹筋。
均整の取れた背筋。
流れ落ちる汗が朝日に照らされ、その一滴一滴が努力の証のように輝いている。
毎朝欠かさない基礎トレーニング。
どれほど世界的スターとなっても、この積み重ねだけは決して怠らない。
それが、日本代表キャプテン・黒羽太音だった。
「兄さん今日も仕上がってるね」
同じく朝から身体を動かしていた玖音がタオルを差し出す。
「ありがとう」
太音はタオルで汗を拭きながら笑った。
「午後は代表戦だからな」
「いつも通りの準備だよ」
その時。
コンコン。
控えめなノックが響いた。
「失礼いたします」
凛だった。
白いエプロン姿のまま、銀色のトレーを大切そうに抱えている。
「太音さん、お飲み物をお持ちしました」
グラスには、自家製のスポーツドリンク。
祖母・紫乃から受け継いだレシピをもとに、レモンとはちみつ、少量の塩を加え、運動後でも飲みやすいよう優しい甘さに仕上げられていた。
さらに、冷えすぎないよう氷は入れず、飲み頃の温度に調整されている。
「わざわざ作ってくれたの?」
太音は少し驚いたように目を丸くした。
「はい」
「運動の後は水分だけではなく、失われたミネラルも補給した方が良いと祖母から教わりましたので」
凛はそう言ってグラスを差し出す。
その様子を見ていた玖音が苦笑しながら肩をすくめた。
「凛ちゃん、兄さんのことよろしく」
「試合前になると無理しがちだから」
凛はこくりと頷く。
「承知いたしました」
「朝食も試合前ですので、脂質を控えめにしてエネルギーになりやすい献立をご用意しております」
「試合後は疲労回復のお料理もご用意しておりますので、安心してお帰りください」
玖音が感心したように笑う。
「後は任せた」
太音は少し照れくさそうに笑いながら、グラスを受け取った。
「ありがとう」
太音は笑顔で受け取り、一口飲む。
爽やかなレモンの香りが口いっぱいに広がる。
「おいしい」
思わず頬が緩んだ。
その一言に、凛も自分のことのように嬉しそうに微笑む。
「お口に合ってよかったです」
「朝食も試合前ですので、脂質を控えめにしてエネルギーになりやすい献立をご用意しております」
「それから、試合後は疲労回復のお料理もご用意しておりますので、どうぞ楽しみにしていてください」
「ご準備が整いましたら、お声がけいたしますね」
「ありがとう」
太音は自然と笑顔になった。
凛は一礼し、静かに部屋を後にする。
扉が閉まる。
太音は手にしたグラスを見つめ、小さく笑った。
「凛ちゃん……すごく気が利く」
スター選手だからではない。
日本代表だからでもない。
一人の人間として、身体を気遣ってくれる。
そんな何気ない優しさが、不思議と胸の奥を温かくした。
***
その後、シャワーを浴びて身支度を整えた太音は、いつものようにリビングへ向かった。
試合へ出発する時間になった。
玄関には黒いスポーツバッグが置かれている。
「太音さん」
凛が保冷バッグを差し出した。
「試合前に召し上がれるよう、おにぎりをご用意しました」
「消化しやすい具材を選びましたので」
太音が中を見る。
鮭。
梅。
昆布。
そして鶏ささみを使った特製おにぎり。
「すごいな」
思わず笑みがこぼれる。
「ありがとう」
「勝ってきます」
「はい」
「いってらっしゃいませ」
深く頭を下げる凛に見送られ、太音は車へ乗り込んだ。
***
夜。
試合は日本代表の勝利で終わった。
リビングでは試合中継の録画が流れている。
豪快なダンク。
正確なアシスト。
最後まで走り続ける姿。
実況が興奮気味に叫ぶ。
『黒羽選手、本日二十八得点! しかし何より光るのはキャプテンとしてのゲームメイクです!』
試合終了。
太音は誰よりも先にチームメイトの元へ駆け寄り、一人ひとりとハイタッチを交わしていた。
その姿を見つめながら、凛は小さく呟く。
「素敵……」
***
「ただいま!」
夜遅く。
太音が帰宅した。
「お帰りなさいませ」
凛が笑顔で迎える。
「勝ちましたね」
「見てくれてた?」
「はい」
「皆様へ何度も声をかけていらっしゃいました」
「味方の方が失敗されても、すぐ励ましていらっしゃって……」
「とても素敵なキャプテンだと思いました」
太音は少し驚く。
「得点じゃなくて、そこ見てたんだ」
「はい」
「太音さんがいらっしゃると、皆様が安心してプレーされていました」
「だから勝てたのだと思います」
テレビではダンクや得点ばかりが取り上げられる。
だが凛は違った。
チーム全体を見ていた。
「……ありがとう」
太音は静かに笑う。
「俺ね」
「子どもの頃から、何をやっても『天才』って言われてきたんだ」
「でも、本当に嬉しいのは」
「仲間が笑って終われる試合なんだ」
凛は優しく頷く。
「太音さんらしいですね」
その一言だけで十分だった。
太音はふと保冷バッグを思い出す。
「あ、おにぎり」
「全部食べたよ」
「試合前にちょうどよかった」
「本当ですか?」
凛は自分のことのように嬉しそうに笑った。
「よかったです」
その笑顔を見た瞬間、太音の胸がじんわりと温かくなる。
(この子は、本当に人を見ている)
スター選手としてではなく。
長男としてでもなく。
一人の人間として。
自然に気遣い、支えてくれる。
そんな人は今までほとんどいなかった。
(守ってあげたいな)
(……ずっと、その笑顔でいてほしい)
誰かをこんなにも大切に思えたのは、いつ以来だろう。
その想いが何なのか、まだ太音自身も気づいてはいない。
黒羽家へ来て、まだ七日。
誰よりも人を支えてきた太音の心にも、
初めて「守りたい」と思える存在が、
静かに根付き始めていた。




