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6.音楽だけの世界

黒羽家で働き始めて六日目。


朝。


黒羽家の静寂を最初に破ったのは、ピアノの音だった。


二階の音楽室から流れてくる澄み切った旋律が、まだ目覚めたばかりの屋敷を優しく包み込む。


凛は朝食の仕上げをしながら、思わず耳を澄ませた。


(……素敵な音色)


毎朝決まった時間に聞こえてくるこの演奏。


演奏しているのは、四男・奏音。


音楽だけを愛し、世界中から"天才"と称される青年だった。


***


朝食を終えた頃。


兄弟たちの中で、一人だけ静かに席を立った人物がいた。


四男・奏音。


月の光を溶かしたような淡いプラチナブロンドの長髪を一つに結び、母親譲りの翡翠色の瞳を持つ中性的な美青年。


白い上質な天然素材のシャツに黒いスラックス。


流行には一切興味がなく、肌触りだけを追求した同じ服を何着も揃えている。


そして、その視線の先には、いつも音楽しかなかった。


「おはようございます、奏音さん」


「……おはよう」


短く返事をすると、そのまま朝食を静かに終える。


新聞も見ない。


スマートフォンも触らない。


食べ終えると、次の楽曲のことだけを考えているように音楽室へ向かっていった。


「今日も練習?」


太音が尋ねる。


「うん」


「午後から録音」


「夜は新曲」


それだけだった。


紫音が苦笑する。


「相変わらずやなぁ」


「奏音は昔から音楽以外には興味あらへん」


「世界中で『奏音様』って追いかけ回されても、本人は一度も振り返らへんし」


太音も笑う。


「パリ国立高等音楽院に最年少で合格したときも、『そうなんだ』で終わったからな」


「昔からあいつだけは別世界に住んでる」


凛は静かに頷いた。


(本当に音楽がお好きなんだ)


***


午前。


掃除を終えた凛は、二階の音楽室の前を通りかかった。


扉の向こうから、美しいピアノの音色が流れてくる。


優しく、繊細で。


それでいて胸の奥へ真っすぐ届くような旋律。


思わず足を止める。


(……素敵)


祖母から教わった言葉を思い出す。


『演奏中の音楽家には、必要がない限り声をかけてはいけません』


凛は足音を立てないよう、その場を離れようとした。


すると——


「……誰?」


演奏が止まった。


「す、すみません!」


凛は慌てて頭を下げる。


「お掃除をしていて、音が聞こえてきたものですから……」


扉が静かに開く。


奏音は凛を見るなり、不思議そうに首を傾げた。


「入ってこないの?」


「え?」


「普通は」


「勝手に入ってくる」


「写真を撮ったり」


「話しかけてくる」


「でも、あなたは帰ろうとした」


凛は困ったように微笑む。


「演奏のお邪魔をしてはいけないと思いました」


「集中されていましたから」


奏音は少しだけ目を見開いた。


演奏を褒められることは数え切れないほどあった。


「神に選ばれた才能」と称えられたこともある。


けれど——


「……変わってる」


「そうでしょうか?」


「うん」


短く頷く。


***


その時だった。


凛は部屋の隅に置かれた湿度計へ視線を向け、小さく首を傾げた。


音楽室では二十四時間換気システムが作動していたが、今日は朝の空気を入れるためか、窓が数センチだけ開いている。


「奏音さん」


「なに?」


「窓を閉めてもよろしいでしょうか」


奏音が振り向く。


「どうして?」


「今日は湿度が高いようです」


「木でできた楽器は湿気に弱いと祖母から教わりました」


「少しだけ窓を開けていらっしゃいますが、この湿度ですと、ピアノに影響が出るかもしれません」


奏音は湿度計を見る。


六十六パーセント。


確かに高い。


静かに窓を閉め、除湿器のスイッチを入れた。


「……気づかなかった」


ぽつりと呟く。


「ありがとうございます」


「いえ」


「祖母から『木でできた楽器は生き物と同じだから、大切に扱いなさい』と教わっただけなんです」


凛は照れくさそうに笑った。


奏音は静かにピアノへ視線を落とす。


世界中の人が、自分を見てきた。


天才だと。


世界一のピアニストだと。


「……あなた」


静かな声が響く。


凛が振り返る。


「はい?」


「僕じゃなくて」


奏音は鍵盤へそっと触れた。


「ピアノを見てた」


「え?」


「みんな最初に僕を見る」


「でも、あなたは楽器を心配した」


凛は少しだけ驚いたように目を丸くした。


「だって、大切なものなんですよね?」


当たり前のように返された一言。


奏音は何も言えなかった。


(……初めてだ)


(僕じゃなく)


(音楽を大切にしてくれる人は)


***


午後。


凛は音楽室へ温かいハーブティーを運んできた。


「失礼いたします」


奏音は楽譜へ目を落としたまま小さく頷く。


「こちら、喉とお身体が温まるハーブティーです」


「長時間の演奏は体も冷えやすいと伺いましたので」


奏音は一口飲む。


優しい香りが広がる。


「……おいしい」


「よかったです」


「祖母が、演奏家の方には温かい飲み物がいいと教えてくれました」


奏音は小さく笑った。


本当に小さな笑みだった。


「ありがとう」


「どういたしまして」


凛は微笑み、部屋を後にする。


静かに扉が閉まる。


奏音はピアノの前へ座った。


世界中には、奏音の演奏を聴きに来る人がいる。


けれど、その中には音楽ではなく、美しい容姿や「天才音楽家」という肩書きだけを見ている人も少なくなかった。


だからこそ。


音楽そのものを大切にしない人が、奏音は何より苦手だった。


けれど、凛は違う。


演奏を無理に褒めることもない。


容姿に見惚れることもない。


ただ、楽器を守ろうとし、


演奏に集中できる環境を守ろうとし、


音楽そのものを大切にしてくれた。


「……不思議な人」


小さく呟く。


今日の旋律は、どこか違っていた。


いつもより優しく。


いつもより温かい。


ふと視線が閉じられた扉へ向く。


(……また来てくれるかな)


そんなことを考えた自分に、小さく苦笑する。


音楽以外のことを考えるなんて、今まで一度もなかった。


黒羽家へ来て、まだ六日。


それでも――


音楽だけで満たされていた奏音の世界へ。


天咲凛という存在は、春風のように静かに入り込み始めていた。


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