5.初めてのお願い
黒羽家で働き始めて五日目。
午後。
高性能なモニターが何台も並び、青白い光が部屋を照らしている。
その中央で、玲音はゲーム制作に没頭していた。
さらりとした白銀の髪が白い首筋にかかる。
長いまつ毛に縁取られた青い瞳は画面だけを見つめ、その横顔は精巧な人形のように整っていた。
人を簡単には寄せつけない、警戒心の強い白猫のような雰囲気をまとっている。
カタカタカタ……
キーボードを打つ音だけが部屋に響く。
昼食もそこそこに作業を続けていると――
コンコン。
「玲音さん、失礼いたします」
凛がお盆を持って部屋へ入ってきた。
「作業中でも召し上がれるように、サンドイッチをご用意しました」
玲音は画面から目を離さないまま答える。
「……そこ置いといて」
「かしこまりました」
凛は机の端へ皿を置こうとして、ふと手を止めた。
空になったペットボトル。
食べかけのお菓子。
冷め切ったコーヒー。
「……」
凛は散らかっていたゴミだけを静かにまとめる。
キーボードを打つ音を邪魔しないよう、一つひとつ音を立てずに片づけていく。
玲音はようやく画面から目を離した。
青い瞳が凛をじっと見つめる。
警戒するように細められたその目は、小さな子猫そのものだった。
「……勝手に片づけた?」
「作業の邪魔にならないよう、音を立てないようにいたしました」
「……」
怒るどころか、玲音は少し驚いた顔になる。
玲音は再び画面へ視線を戻そうとした。
そのとき、凛が小さく首をかしげる。
「玲音さん」
「……なに」
「こちらのお飲み物、もう冷めてしまっています」
机の上のマグカップを見つめながら言う。
「温かいものをお淹れしましょうか」
「……別にいい」
そう答えながらも、玲音はコーヒーに手を伸ばした。
一口飲んだ瞬間、顔をしかめる。
「……まずい」
その様子に、凛は思わず小さく笑った。
「新しいものをご用意しますね」
「いいって」
「でも、お仕事中ですよね」
「集中できるように、温かいコーヒーをお持ちします」
そう言って部屋を出ていく。
玲音は止める間もなく、その後ろ姿を見送った。
「……」
数分後。
凛は湯気の立つコーヒーを持って戻ってきた。
「どうぞ」
「……」
玲音は無言でカップを受け取り、一口飲む。
「……おいしい」
「よかったです」
凛は安心したように微笑んだ。
「作業が長引く日は、お飲み物だけでも温かい方が疲れにくいそうです」
「祖母から教わりました」
玲音は静かにカップを見つめる。
「……そこまでしなくてもいいのに」
凛は不思議そうに首をかしげた。
「お仕事ですから」
「皆様が少しでも快適に過ごせるよう、お手伝いすることが私の役目です」
その言葉に、玲音は返事ができなかった。
これまで何人もの世話係が来た。
けれど、みんな決められた仕事をこなすだけだった。
忙しそうにしている自分を見ても、「お疲れ様です」と声をかける程度。
作業の邪魔にならないよう気を配り、食べやすいものを用意し、飲み物まで気にかけてくれる人はいなかった。
(……なんなんだ、この人)
凛は空になったお盆を持ち直し、一礼する。
「それでは失礼いたします」
「何かございましたら、いつでもお呼びください」
静かに扉が閉まる。
部屋には再びキーボードを打つ音だけが響いた。
しばらくして、キーボードの打つ音が止まり、
玲音はマグカップを両手で包み込む。
温もりが指先へじんわり伝わってきた。
普段なら誰かが部屋へ入ってくるだけで鬱陶しく感じる。
なのに今日は、不思議と嫌じゃなかった。
「……ありがとう」
誰にも聞こえないほど小さな声。
その唇はほんの少しだけ緩み、すぐにいつもの無表情へ戻る。
まるで、人に懐くのが苦手な猫が、初めて喉を鳴らしたような小さな変化だった。
黒羽家へ来て、まだ五日。
それでも、玲音の閉ざされていた心には、確かに小さな変化が芽生え始めていた。




