4.初めての昼食
黒羽家で働き始めて四日目。
凛はいつものように朝の仕事を終え、昼食の準備に取りかかっていた。
「今日は皆様そろって昼食を召し上がる予定なんですね」
執事長が予定表を確認しながら言う。
「はい。太音さんは午後から練習、玖音さんと紫音さんはレコーディング、奏音さんは海外とのオンライン打ち合わせ、玲音さんは夕方から配信でしたよね」
凛は予定を確認しながら食材を取り出していく。
「その通りです」
執事長は少し驚いたように笑った。
「もう皆様の予定を覚えられたのですね」
「仕事ですから」
凛は微笑みながら包丁を握る。
兄弟一人ひとりの体調や仕事を考え、献立を決める。
太音には高たんぱく低脂質の鶏むね肉。
玖音には大学での研究とレコーディングが続くため、DHAを多く含む魚料理。
紫音には喉に優しく、疲れたときでも食べやすい和風あんかけ。
奏音には、作曲中でも食べやすく、胃に負担をかけにくい野菜中心の献立。
玲音には不足しがちな栄養を補えるよう彩り豊かな副菜。
「全部違う献立なんですか」
若い使用人が驚く。
「皆様、お仕事も体の使い方も違いますから」
凛は当然のように答えた。
「少しでも元気にお仕事をしていただきたいので」
その言葉に、執事長は静かに頷いた。
「……紫乃さんも同じことを仰っていました」
***
昼。
珍しく五兄弟全員が食卓に集まった。
「うわ、今日もうまそう」
太音が嬉しそうに席へ座る。
紫音も料理を見て目を輝かせた。
「今日も豪華やな」
しかし玖音だけは腕を組んだまま料理を見つめている。
「……」
凛は気付かず料理を運び続けた。
「お待たせいたしました」
全員の前に料理が並ぶ。
「いただきます」
太音が一口食べた瞬間、思わず笑顔になった。
「うまっ!」
「この鶏肉、すごく柔らかい」
紫音も味噌汁を飲み、目を丸くする。
「出汁めっちゃうまいやん」
奏音も静かに箸を動かしていた。
何も言わない。
だが、いつもより箸が進んでいる。
玲音もゲーム画面から顔を上げることなく食べ始める。
そして珍しく、ご飯をおかわりした。
「……」
凛は嬉しそうに微笑んだ。
その様子を見ていた玖音が、不意に口を開く。
「ねえ」
玖音が箸を止めた。
「はい」
「これ、偶然?」
「何がでしょうか」
「俺だけ魚だよね」
凛は小さく首をかしげた。
「玖音さんは今日、長時間のレコーディングと大学の研究があると伺いました」
「集中力が続くように、DHAが多いお魚を選びました」
「玖音さんは、濃い味付けよりも、お出汁の味を楽しまれているようでしたので、少し薄味にしてみました」
玖音が思わず顔を上げる。
「……そこまで分かる?」
「はい」
「最後のお味噌汁まで、とても丁寧に召し上がっていらしたので、お出汁がお好きなのだろうなと思いました」
「……」
今度は紫音が口を開く。
「じゃあ俺のは?」
「紫音さんは喉を大切にされていますので、刺激の少ない味付けにしました」
「それから、生姜を少し入れています」
「レコーディング前でも召し上がりやすいと思います」
紫音は思わず笑った。
「めっちゃ見とるやん……」
続いて太音が鶏肉を見つめる。
「俺は?」
「午後から練習と筋力トレーニングですよね」
「高たんぱくで脂質を抑えています」
「でも、太音さんは少し甘めの味付けがお好きみたいでしたので、照り焼き風にしました」
「えっ」
太音が驚く。
「俺、そんなこと話したっけ?」
「お食事を見ていて分かりました」
「甘い味付けの日は、少しだけ食べる速度が速かったので」
「……そこまで見てたんだ」
太音は照れくさそうに笑った。
その横で、玖音は静かに箸を見つめた。
自分でも無意識だった癖を見抜かれたことに、小さく息をのむ。
(……俺の癖まで)
胸の奥が、わずかにざわつく。
その横で、奏音が静かに野菜へ箸を伸ばす。
「奏音さんはお野菜がお好きですよね」
「ですので旬のお野菜を多めにしました」
奏音は少しだけ目を見開いた。
「……好き」
短く呟く。
少し間を置いて、
「ありがとう」
さらに小さく続けた。
「覚えていてくれたんだ」
その言葉は、誰かに向けて気持ちを伝えることに慣れていない奏音にしては、珍しく素直な一言だった。
その一言に、凛は嬉しそうに微笑んだ。
最後に玲音を見る。
「玲音さん」
「……なに」
「この数日のお食事を拝見していて、ピーマンがお苦手なのかなと思いました」
「でも栄養もございますので、今日はほんの少しだけ細かく刻んでハンバーグへ混ぜてみました」
「もし苦手でしたら、無理になさらなくて大丈夫です」
「今日は一口だけ挑戦してみようかな、と思われたら、それだけで十分です」
玲音は少しだけ眉をひそめる。
「……」
恐る恐る一口食べる。
「……」
もう一口。
「……食べられる」
信じられない、といった表情でハンバーグを見つめる。
そしてもう一口、小さく口へ運んだ。
凛は嬉しそうに微笑んだ。
「よかったです」
「無理はなさらないでくださいね」
その言葉に、紫音が懐かしそうに笑った。
「ほんま、紫乃さんと一緒や」
「嫌いやからって食べさせへんのやなくて、食べられるように工夫してくれたんよな」
太音も優しく頷く。
「好き嫌いしたら、怒るんじゃなくて」
「『一口だけ頑張りましょう』って笑ってくれてさ」
『好き嫌いをしていたら大きくなれませんよ』
『大丈夫。一緒に食べられるようになりましょうね』
幼い頃、何度も聞いた優しい声が兄弟たちの脳裏によみがえる。
玖音は静かに料理を見つめた。
(まだ四日だぞ……)
(予定も、好みも、苦手なものまで覚えてる)
(……この人、本当に何者なんだ)
「一人ずつ献立を変えたのか」
「はい」
「少しでもお力になれたらと思いまして」
その一言に、誰もすぐには言葉を返せなかった。
太音が笑う。
「やっぱり凛ちゃんすごいな」
紫音も頷く。
「ここまで考えて作ってくれる人、初めてや」
玖音は黙ったまま魚を口へ運ぶ。
(……うまい)
悔しい。
認めたくない。
それなのに、箸が止まらない。
味付けは優しく、それでいて物足りなさはない。
レコーディング前でも食べやすいように油も控えめだ。
(俺の仕事まで考えて作ったのか)
ふと向かいを見る。
凛は兄弟全員のお茶を注ぎ直したり、空いた皿を下げたりと忙しそうに動いていた。
自分はまだ一口も食べていない。
「凛ちゃん」
太音が声をかける。
「はい」
「凛ちゃんは食べないの?」
「皆様がお食事を終えられてからいただきます」
「冷めちゃうよ」
「大丈夫です。慣れていますから」
そう言って笑う凛に、太音は少し困ったような表情を浮かべた。
「でも、一緒に食べた方がおいしいのに」
「ありがとうございます。でも、仕事中ですので」
丁寧に頭を下げ、また配膳へ戻っていく。
その姿を見つめながら、紫音がぽつりと呟く。
「紫乃さんもそうやったな」
「俺らが食べ終わるまで、自分は座らへんかった」
その一言に、食卓が少し静かになる。
玖音も思い出していた。
幼い頃。
熱を出した夜も。
仕事で落ち込んだ日も。
紫乃はいつも笑顔で温かい料理を作ってくれた。
その姿が、凛と重なる。
(……違う)
(重ねるな)
まだ来て四日しか経っていない。
信用できるわけがない。
そう思っていると、凛が玲音の前で立ち止まった。
「玲音さん」
「……なに」
「今日は挑戦してくださって、ありがとうございます」
「……別に」
「とても嬉しかったです」
そう言って、にこりと微笑む。
玲音は一瞬だけ目を丸くし、すぐに視線を逸らした。
「……たまたま」
小さくそう呟いて、ご飯を口へ運ぶ。
その耳が少し赤くなっていることに、本人だけは気づいていなかった。
太音はその様子を見て笑いをこらえる。
(玲音まで……)
凛は空いた皿を下げながら、穏やかに微笑んだ。
「皆様、お口に合ってよかったです」
その笑顔には、計算も見返りを求める気持ちもない。
ただ、目の前の人が少しでも安心して食事を楽しめたなら、それだけで嬉しい。
玖音はその笑顔から目を逸らせなかった。
(……こんな人、初めてだ)
芸能人の自分たちにも特別な興味を示さず、
誰かに認められようともせず、
ただ黙って人のために動いている。
知らないうちに、凛という存在は、
一人ひとり違う歩幅を尊重し、
無理に距離を縮めようとはせず、
相手が踏み出せる速度で、そっと寄り添っていた。
だからこそ、誰も気づかないうちに、
凛は少しずつ黒羽家の日常へ溶け込み始めていた。
――まだ四日。
それでも、五兄弟の心は、誰にも気づかれないほど静かに変わり始めていた。




