3.ただの世話係じゃない
黒羽家で働き始めて三日目の朝。
凛は今日も誰よりも早く起きていた。
まだ外が薄暗いうちからキッチンへ立ち、朝食の準備を始める。
炊きたてのご飯。
焼き加減まで計算された鮭。
ふんわりと巻かれただし巻き卵。
出汁の香りが広がる味噌汁。
さらに五兄弟それぞれの予定に合わせ、栄養バランスまで考えた副菜が並んでいく。
朝食の支度を終えると、そのままリビングや廊下を丁寧に掃除し、大理石の床は鏡のように輝いていた。
ランドリールームでは洗濯物を素材ごとに仕分けし、高級スーツや衣装は専用コースで洗濯、シャツには一枚ずつ丁寧にアイロンをかける。
洗い終えた食器や調理器具は元の位置へ寸分違わず戻され、キッチンには生活感がまるで残っていない。
執事やメイドたちが仕事を始める頃には、すべての家事がほとんど終わっていた。
「今日も完璧ですね」
執事長が感心したように頷く。
「ありがとうございます」
凛は照れくさそうに微笑み、最後の食器を静かに並べていく。
そんな様子を少し離れた場所から玖音が眺めていた。
「……料理も掃除も確かに上手い」
「でも、それだけだろ」
ぼそりと呟く。
紫音もご飯を頬張りながら頷いた。
「まあ、紫乃さんに色々教わったんやろ」
「そのうちボロが出るって」
二人の言葉を聞いても、凛はいつも通り穏やかな笑顔を浮かべるだけだった。
「おかわりのご飯、お持ちしますね」
「……」
玖音は少しだけ調子を狂わされる。
(何を言っても怒らないな……)
***
朝食を終えた頃。
リビングの一角では、黒羽家の父・遠矢が契約書や資料を机いっぱいに広げ、腕を組んでいた。
「どうしましたか?」
コーヒーを置いた凛が、そっと声をかける。
「ああ、新規事業の契約書なんだ」
「顧問弁護士にも確認してもらう予定なんだけど、どうしても気になる部分があってね」
遠矢は苦笑した。
凛は資料へ目を向け、遠慮がちに尋ねる。
「あの……少し拝見してもよろしいでしょうか」
「ああ、もちろん」
凛は一礼し、静かに契約書へ目を通す。
しばらく読み進めると、小さく顔を上げた。
「社長」
「もし私の読み違いでしたら申し訳ありません」
「こちらの条文ですが、利益配分と損害賠償の基準が少し分かりにくく感じました」
「私の解釈が違っているかもしれませんので、顧問の先生にも一度ご確認いただけると安心かと思います」
遠矢は該当箇所を読み返し、目を見開いた。
「……なるほど」
「だから違和感があったのか」
執事長も頷く。
「確認していただいた方がよさそうですね」
遠矢は感心したように凛を見る。
「君、法律を勉強したことがあるのかい?」
凛は少し照れくさそうに笑った。
「法律を専門に学んだわけではありませんが、行政書士の勉強をする中で少しだけ……」
「現在は通信制大学で社会福祉学と心理学を学びながら、興味を持ったことを少しずつ勉強しています」
「祖母のお手伝いをする中で、『人を支えるには家事だけではなく、社会の仕組みも知っていた方が役に立つ』と教わりまして……」
その謙虚な口調に、遠矢は優しく微笑んだ。
「二十歳でそこまで努力しているなんて立派だ」
「紫乃さんらしい教えだね」
「ありがとうございます」
凛は嬉しそうに微笑む。
「祖母には、『人を支える人ほど、一生勉強を続けなさい』と言われて育ちました」
そのやり取りを、廊下の陰から玖音が静かに見つめていた。
(何なんだ、この子……)
料理も。
掃除も。
それだけじゃない。
福祉や心理を学びながら、法律やお金の知識まで身につけている。
それなのに、一つも自慢しない。
玖音は思わず尋ねた。
「ねえ」
「他にも何か資格は持ってるの?」
凛は少し考えてから答える。
「行政書士やファイナンシャル・プランナー、簿記などを取得しております」
「料理が好きなので、栄養学も本を読んで勉強しています」
部屋が静まり返る。
紫音が思わず笑った。
「いやいや、それだけやっといて『少し』はないやろ」
「そうなんですか?」
きょとんと首をかしげる凛。
その天然な反応に、部屋の空気がふっと和らいだ。
玖音は静かに凛を見つめる。
何を褒められても、自分の努力ではなく祖母のおかげだと言う。
その姿が、不思議と心に残った。
気づけばまた視線で追ってしまう。
慌てて目を逸らす。
(……俺、なんで目で追ってるんだ)
その様子を見ていた太音が小さく笑う。
「玖音」
「何」
「凛ちゃんのこと、気になってきた?」
「……別に」
即答だった。
その速さに紫音が吹き出す。
「クッ……否定すんの早すぎやろ」
「図星ちゃう?」
「違う」
そっぽを向く玖音。
けれど、その耳がほんの少し赤くなっていることに気づいたのは、太音と紫音だけだった。
黒羽家へ来て、まだ三日。
それでも少しずつ。
本当に少しずつ。
天咲凛という存在は、閉ざされていた五兄弟の心に、小さく、けれど確かな変化をもたらし始めていた。




