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2.認めない

翌朝。


まだ外は薄暗く、海の向こうが淡く白み始めた頃だった。


時刻は午前五時。


私は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。


(今日から本当のお仕事が始まる)


鏡の前で肩まで伸びた艶やかな黒髪をひとつにまとめる。


大きな黒い瞳。


白く透き通るような肌。


昔から「綺麗」と言われることはあったけれど、自分では特別だと思ったことは一度もない。


今は見た目よりも、この仕事をきちんと務められるか、そのことだけで頭がいっぱいだった。


「よし」


祖母が四十年以上守り続けてきた黒羽家。


今日からは私が、その想いも一緒に受け継ぐ。


気を引き締め、部屋を出た。


***


静まり返った最上階フロア。


五兄弟はまだ誰も起きていないようだった。


私はまずリビングへ向かう。


昨日は緊張して気づかなかったが、改めて見ると、その広さに思わず息をのんだ。


「……広い」


リビングだけでも学校の体育館ほどある。


一面ガラス張りの窓からは朝日に照らされた海が一望でき、磨き上げられた大理石の床には朝焼けが映り込んでいた。


高級家具が整然と並び、黒く艶やかなグランドピアノが静かに存在感を放っている。


(毎日ここを掃除するんだ)


驚きはした。


けれど、不思議と嫌だとは思わなかった。


祖母が毎日大切にしてきた場所。


だからこそ、自分も丁寧に守りたい。


エプロンを身につけると、掃除道具を手に取った。


窓ガラスを拭き、棚の埃を払い、大理石の床を丁寧に磨いていく。


広いからといって雑にはしない。


家具一つひとつを傷つけないよう慎重に。


花瓶の向きも整え、クッションの角度まで揃える。


祖母が何度も教えてくれた。


『掃除は汚れを落とすことじゃないの。その家で暮らす人が、安心して過ごせる場所を整えることなのよ』


私はその言葉を胸に、一つひとつ丁寧に仕事を進めた。


一時間ほど経つ頃には、リビング全体が朝日に照らされ、さらに美しく輝いて見えた。


その様子を、少し離れた場所から使用人たちが見守っていた。


「……早いですね」


「紫乃さんと同じ手際です」


「まだ二十歳とは思えません」


一人の女性スタッフが感心したように呟く。


「普通なら、この広さを見ただけで圧倒されますよ」


執事長も静かに頷いた。


「それなのに、一度も手を止めませんね」


私はその会話に気づくことなく時計を見る。


午前六時。


(次は朝食)


広いキッチンへ向かう。


そこは家庭用というより、一流ホテルの厨房だった。


最新式の調理器具。


巨大な冷蔵庫。


整然と並ぶ調味料。


思わず目を輝かせる。


「すごい……」


けれど、料理をすることに変わりはない。


祖母から受け継いだ献立ノートを開く。


『朝は体をつくる大切な食事。忙しい子たちだからこそ、栄養をしっかり考えてあげて』


私は微笑み、小さく頷いた。


炊きたてのご飯。


出汁から丁寧に作る味噌汁。


ふっくらと焼き上げた鮭。


だし巻き卵。


ほうれん草のおひたし。


ひじきの煮物。


旬の果物。


彩り豊かな和朝食が少しずつ完成していく。


キッチンには、鰹節と味噌の優しい香りが広がった。


その様子を見ていた執事長が目を丸くする。


「……本当にお一人で作られるのですか?」


私は不思議そうに振り返った。


「はい」


「この人数分ですよ?」


「はい」


「専属シェフに任せることもできます」


「ありがとうございます」


「でも、大丈夫です」


「これは私の大切なお仕事ですから」


「祖母からすべて教わりました」


そう言って微笑む。


包丁を持つ手には迷いがない。


魚を焼きながら味噌汁を仕上げ、同時に卵焼きを巻いていく。


その無駄のない動きに、執事長も使用人たちも言葉を失った。


「……紫乃さん、そのものですね」


誰かが小さく呟いた。


そのときだった。


「おはよう」


聞き覚えのある明るい声がリビングから響く。


振り向くと、スポーツウェア姿の太音さんが立っていた。


朝練へ向かう準備を終えたのだろう。


「おはようございます」


私が頭を下げると、太音さんは食卓いっぱいに並ぶ朝食を見て目を見開いた。


「えっ……これ全部、凛ちゃんが?」


「はい」


「掃除も?」


「はい」


「朝食も?」


「はい」


「まだ六時半だよ?」


「皆様が気持ちよく一日を始められるようにと思いまして」


太音さんはリビングを見回した。


磨き上げられた床。


整えられた家具。


そして湯気の立つ朝食。


「……すごい」


思わず漏れたその一言。


すると、廊下の奥から玖音さんが姿を現した。


「兄さん」


「そんなに簡単に感心しないで」


眠そうに黒髪をかき上げながら、静かな視線を私へ向ける。


「仕事が丁寧なのは分かった」


「でも、それだけで人は分からない」


「信用って、そんな簡単にできるものじゃないから」


冷たい言い方だった。


けれど、その声の奥には、人を簡単には信じられなくなった寂しさが滲んでいるようにも聞こえた。


その後ろで紫音が肩をすくめる。


「まあ、ゆっくりやな」


「俺らも、凛ちゃんのこと知っていかなあかんし」


私は静かに頷いた。


「はい」


言い返そうとは思わなかった。


(信頼は、お願いしてもらうものじゃない)


(毎日の積み重ねで、少しずつ育っていくもの)


祖母もそうやって四十年以上、黒羽家との信頼を築いてきた。


だから私も焦らない。


この家で暮らす皆様が、安心して毎日を過ごせるように。


言葉ではなく、毎日の仕事を通して寄り添っていこう。


祖母から受け継いだその教えを胸に、一つひとつの仕事を丁寧に積み重ねていく。


いつか黒羽家の皆様が、この家へ帰ってきたとき、


「今日も帰ってきてよかった」


そう思える場所をつくること。


それが、今の私の一番の願いだった。


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