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1.新しい世話係

「凛……本当にごめんね」


祖母・天咲紫乃あまさきしのは、申し訳なさそうに頭を下げた。


四十年以上、黒羽家で乳母兼世話係として働いてきたその手は、少しだけ震えている。


「おばあちゃん、そんな顔しないで」


私は祖母の手をそっと包み込む。


「私は大丈夫。おばあちゃんの代わりなんて務まるか分からないけど、一生懸命頑張るから」


紫乃は安心したように微笑んだ。


「ありがとう、凛」


少し間を置いて、優しい声で続ける。


「黒羽家の子たちは、本当に優しい子ばかりよ」


「でもね、みんな少し不器用なの」


「頑張りすぎてしまう子」


「一つのことに夢中になると周りが見えなくなる子」


「人と距離を取ってしまう子」


「明るく笑っていても、本当の気持ちを隠してしまう子」


「それぞれ違うけれど、みんな自分のことは後回しにしてしまうの」


「誰も『助けて』って上手に言えないの」


「だからね、凛」


「あの子たちが安心して帰ってこられる場所になってあげて」


私は力強く頷いた。


「うん」


祖母は四十年以上、黒羽家に仕えてきた。


赤ん坊だった五人兄弟を抱き、泣けばあやし、熱を出せば夜通し看病し、親代わりとなって育ててきた。


黒羽家にとって祖母は、使用人ではない。


家族だった。


しかし長年の腰痛が悪化し、医師からも止められ、引退を決意した。


そして、その後任として選ばれたのが――


孫である私、


天咲凛あまさきりん、二十歳。


正直、不安しかない。


それでも祖母が安心して第二の人生を歩めるように。


黒羽家の皆さんのお役に立てるように。


その一心で私は車へ乗り込んだ。



***



車は海沿いの道を静かに走る。


窓の外には青く輝く海。


潮風に揺れる木々。


その向こうに、巨大なガラス張りのビル群が見えてきた。


「あれが株式会社Cloverです」


運転席の男性が穏やかに教えてくれる。


私は思わず目を丸くした。


「全部……ですか?」


「はい」


言葉を失う。


まるで、一つの街だった。


高層オフィスビル。


数千人規模を収容できるコンサートホール。


最新設備を備えたライブハウス。


世界中のアーティストが集うDJクラブ。


ガラス張りのクリニック。


高級アパレルショップ。


日本最大級のゲーム開発会社。


そのすべてに、


『Clover』


のロゴが掲げられている。


「これ全部、黒羽家の会社なんですか……?」


「ええ。現在は世界各国にも事業を展開しております」


私は思わず乾いた笑みを浮かべた。


(すごいっていうか……規模がおかしい)


車はさらに奥へ進む。


やがて、海を一望できる超高級タワーマンションの前でゆっくり止まった。


全面ガラス張りの外観。


青空を映し出すその姿は、海外の高級ホテルのようだった。


「……ここがお家ですか?」


「はい」


「黒羽家専用レジデンスになります」


専用。


つまり、この建物そのものが黒羽家の住まいらしい。


(本当に住む世界が違う……)


車を降りると、エントランスには黒いスーツ姿のスタッフが整列していた。


全員が一斉に頭を下げる。


「ようこそお越しくださいました、天咲様」


「ひゃっ……!」


思わず肩が跳ねる。


まるで映画のワンシーンだった。


床は磨き上げられた白い大理石。


天井には何層にも重なるシャンデリア。


壁には世界的画家の絵画。


季節の花々が美しく飾られ、ほのかな香りが空間を包んでいる。


高級ホテル以上。


そんな言葉が自然と浮かんだ。


執事に案内され、専用エレベーターへ乗り込む。


カードキーをかざすと静かに扉が閉まり、一気に最上階へ向かった。


「最上階は黒羽家だけのプライベートフロアとなっております」


耳が少しだけ詰まるほどの速さだった。


やがて静かに扉が開く。


「……え?」


思わず息を呑む。


一面ガラス張りのリビング。


どこまでも広がる青い海。


白を基調とした開放的な空間。


高級ブランドの家具がゆったりと並び、中央には黒く艶やかなグランドピアノが置かれている。


吹き抜けの天井からは大きなシャンデリアが柔らかな光を降り注ぎ、


まるで海外の迎賓館のような美しさだった。


リビングだけで普通の家が一軒建ってしまいそうな広さだ。


(……ここ、本当に家なの?)


私は思わず立ち尽くしてしまった。


そのとき――


「おっ、新しい世話係?」


明るくよく通る声がリビングへ響いた。


振り向くと、一人の青年がスポーツバッグを肩に掛けて立っていた。


百九十五センチはある長身。


鍛え抜かれた筋肉質の体。


爽やかな茶髪に、吸い込まれそうな翡翠色の瞳。


海外のプロスポーツ選手のような圧倒的な存在感があるのに、不思議と威圧感はない。


その緑の瞳は穏やかで、初対面の私を安心させるような優しさを宿していた。


青年は人懐っこく笑う。


「俺、黒羽太音くろばたお。五人兄弟の長男なんだ。よろしく!」


太陽みたいな笑顔だった。


つられるように私も背筋を伸ばし、深く頭を下げる。


「初めまして。天咲凛と申します。本日より黒羽家の世話係を務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」


「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ」


太音さんは優しく微笑んだ。


見上げるほど大きな体なのに、その雰囲気はどこまでも柔らかい。


「改めてよろしくね、凛ちゃん」


そう言って大きな手を差し出してくれる。


「……はい」


少し戸惑いながら、その手を握り返した。


温かくて、とても大きな手だった。


「これからよろしく」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


緊張していた心が、ほんの少しだけ軽くなる。


そのときだった。


太音さんが不思議そうに首をかしげた。


「……あれ?」


「はい?」


「俺のこと知ってる?」


「えっと……初めまして、ですよね?」


その瞬間。


太音さんの表情が止まる。


「え?」


数秒の沈黙。


「俺、日本代表のプロバスケットボール選手なんだけど……」


「あ……申し訳ありません。スポーツはあまり見なくて」


「…………」


そして次の瞬間。


「あははははっ!」


太音さんはお腹を抱えて笑い始めた。


「すごい! 本当に久しぶりだ!」


「俺のこと知らない人!」


豪快な笑い声がリビングいっぱいに響き渡る。


その声に反応したように、廊下の奥から次々と人影が現れた。


「兄さん」


「そんなに大きな声を出さなくても聞こえるよ」


最初に現れたのは、艶のある黒髪の青年だった。


百九十センチ近い長身。


透き通るような青い瞳。


彫刻のように整った顔立ち。


細身に見えるが、無駄なく鍛えられた身体をしている。


その視線は鋭く、初対面の私を静かに観察していた。


まるで研究者が対象を分析するような冷静さだった。


「……へぇ」


小さく呟くだけで、それ以上何も言わない。


続いて現れたのは、明るい金髪の青年。


同じくらいの長身。


青い瞳。


モデルのような抜群のスタイル。


誰もが思わず見惚れてしまう華やかな笑顔を浮かべながら歩いてくる。


「朝から何やってんねん、太音兄」


「めっちゃ笑ってるやん」


関西弁がよく似合う。


その場の空気が自然と明るくなるような人だった。


けれど、その笑顔の奥には、少しだけ無理をしているような影も見えた気がした。


その後ろから、ゆっくり一人の青年が姿を現す。


月の光を溶かしたような淡いプラチナブロンドの長い髪。


後ろでゆるく一つに束ねられている。


翡翠色の瞳はまだ眠たげに細められていた。


白いシャツ。


黒いスラックス。


飾り気のない服装なのに、不思議なほど気品がある。


女性と見間違えてしまうほど中性的な美しさ。


まるで中世ヨーロッパの若き貴族が、そのまま現代へ現れたようだった。


「……ふぁ」


小さく欠伸をしながら呟く。


「朝から騒がしい」


興味があるのは音だけなのか、私を見る時間はほんの一瞬だった。


最後に、廊下の奥の扉が少しだけ開く。


そこからひょこっと顔を覗かせた少年。


白に近い銀髪。


宝石のような青い瞳。


首には大きなヘッドホン。


片手には携帯ゲーム機。


人形のように整った顔立ちなのに、その瞳には強い警戒心が宿っていた。


まるで知らない人を警戒する子猫のようだった。


「……誰?」


短く尋ねる。


それだけ言うと、またゲーム画面へ視線を戻してしまう。


(この人たちが……黒羽家の五兄弟)


全員、驚くほど美しい。


テレビや映画で見る芸能人よりも。


モデルよりも。


現実離れした整った顔立ち。


長い手足。


それぞれ違う魅力を持ちながらも、五人全員が圧倒的な存在感を放っていた。


思わず見惚れてしまう。


そのとき。


黒髪の青年――玖音さんが静かに口を開いた。


「……若いね」


その青い瞳には歓迎の色はない。


静かな警戒心だけがあった。


「紫乃さんの代わり?」


その一言で、リビングの空気が少しだけ変わる。


私は姿勢を正し、もう一度頭を下げた。


「初めまして。天咲凛と申します。本日より黒羽家でお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」


玖音さんは腕を組み、私をじっと見つめた。


「俺は黒羽玖音くろばくおん


短く名乗る。


「三男の紫音しおんや」


金髪の青年が笑う。


「よろしく……って言いたいところやけど」


少しだけ苦笑する。


「まだ信用はできへんな」


「……奏音てお


プラチナブロンドの青年はそれだけ名乗ると、窓際へ歩いていく。


まるで私には興味がないようだった。


「……玲音れお


銀髪の少年も、ゲーム画面から目を離さないまま小さく名前だけ告げた。


私はもう一度深く頭を下げる。


「皆様のお役に立てるよう、精一杯努めます」


しかし返ってきたのは静かな沈黙だった。


やがて、玖音が静かに口を開いた。


「紫乃さんの孫だから採用されたんだろうけどさ」


少しだけ視線を細める。


「悪いけど、俺たちは若い女性を世話係として迎えることには反対だった」


「どうせまた、俺たち目当てだろ」


「一週間もすれば本性を出す」


その言葉に、太音が困ったような表情を浮かべる。


「おい、玖音」


「兄さんは黙ってて」


玖音は私から目を逸らさなかった。


「俺たちは昔から散々だった」


「ファン」


「ストーカー」


「週刊誌」


「金目当て」


淡々と並べられる言葉。


感情を押し殺したような口調だった。


紫音も苦笑する。


「かわいい顔して近づいてくる子なんて、山ほど見てきたしな」


玲音がぽつりと呟く。


「……信用した人に裏切られたこともある」


その声は小さい。


けれど、どこか胸が締めつけられるような響きがあった。


部屋の空気が静かに重くなる。


私は何と言えばいいのか分からず、ただ静かに話を聞いていた。


玖音は小さく息をついた。


「だから正直に言う」


「どうせ君も、俺たち目当てだろ?」


私は少し考えてから、小さく首をかしげた。


「……目当て、ですか?」


「え?」


今度は玖音の表情が止まる。


「皆様とは今日初めてお会いしましたし……」


私は祖母から聞いていたことを思い出しながら答えた。


「祖母からは、『みんな優しい子だから支えてあげてね』と言われて来ました」


「それだけです」


しん、と静まり返るリビング。


私は話が終わったと思い、素直に尋ねた。


「あの……皆様は、どのようなお仕事をされているのでしょうか?」


五人全員の動きが止まった。


太音が恐る恐る聞く。


「俺達世界的な芸能一家なんだけど……」


「そうなんですか!」


私は素直に驚いた。


「知りませんでした」


「……本当に?」


「はい」


玖音が半ば呆れたように笑う。


「俺と紫音はアイドル」


「えっ!」


思わず目を丸くする。


「お二人とも歌がお上手なんですね」


「そこ?」


紫音が思わず吹き出した。


「YouTubeもやってるで?」


「YouTubeは、お料理の動画くらいしか見たことがなくて……」


「ライブは?」


「行ったことありません」


「音楽番組は?」


「テレビも、あまり見ないので……」


数秒の沈黙。


そして――


「ぶはっ!」


最初に笑い出したのは紫音だった。


「あかん!」


「ほんまに知らんのや!」


お腹を抱えて笑っている。


玖音も肩を震わせた。


「演技じゃないよね、これ」


太音もまた豪快に笑い始める。


「ははははっ!」


「こんな子、本当にいるんだ!」


広いリビングへ明るい笑い声が響いた。


その様子を見ていた奏音が、窓の外を眺めたまま静かに呟く。


「……人には興味ない」


少しだけ間を置いて、翡翠色の瞳だけを私へ向けた。


「でも……君の声は、雑音じゃない」


それだけ言うと、また静かに外へ視線を戻した。


私は意味が分からず首をかしげる。


玲音もゲーム機からゆっくり顔を上げた。


青い瞳が私を見つめる。


「生身の人間は……みんな同じだと思ってた」


少しだけ言葉を探すように間を置く。


「でも……」


そこで口を閉じると、小さく首を振った。


「……なんでもない」


再びゲーム画面へ目を落とす。


「?」


私は不思議そうに首をかしげた。


「私、何か変なことを言いましたか?」


「……別に」


玲音はそれ以上何も話さない。


少しだけ気まずい沈黙が流れる。


すると太音が苦笑しながら私へ微笑んだ。


「ごめんね、凛ちゃん」


「玲音は昔から人見知りなんだ」


すると玲音が小さくため息をつく。


「……人見知りじゃない」


少し間を置き、ぽつりと続けた。


「人を簡単には信用できないだけ」


その一言に、兄弟たちは顔を見合わせる。


誰も否定しなかった。


その言葉を、一番よく知っていたからだ。


私は玲音の方を見て、静かに頷いた。


「そうだったのですね」


それ以上は何も聞かなかった。


理由も。


過去も。


無理に知ろうとはしなかった。


その反応に、玲音は少しだけ目を丸くする。


「……」


何も言わず、またゲームへ視線を戻した。


太音は安心したように笑う。


「まあ、気にしなくていいよ」


「凛ちゃんは、そのままでいてくれたらいい」


その笑顔は、とても温かかった。


私は小さく微笑み返す。


「はい」


太音はゆっくり頷く。


そして、改めて優しく言った。


「凛ちゃん」


「はい」


「黒羽家へようこそ」


その一言で、胸を締めつけていた緊張が、少しだけほどけていく。


私は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


まだ始まったばかり。


祖母から受け継いだこの場所で。


私は一人ひとりと向き合いながら、精一杯努めていこう。


そう心に誓った。


このときの私は、まだ知らなかった。


忙しさの中で自分を後回しにしてしまう五人の兄弟と過ごす日々が、少しずつ互いの心を変えていくことを。


そして、この出会いが黒羽家の未来を大きく変える始まりになることを――。


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