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9.素直になれない天才

黒羽家で働き始めて九日目。


朝。


リビングには穏やかな時間が流れていた。


朝食の準備を終えた凛が、焼きたての魚や炊きたてのご飯を並べていく。


「おはようございます」


最後に姿を現したのは、次男・玖音だった。


艶のある黒髪。


吸い込まれそうな青い瞳。


百九十センチの長身に、無駄のない細身の身体。


世界的人気アイドルでありながら、国立大学医学部で研究に励む秀才。


頭の回転は兄弟の中でも速く、冷静な理系タイプ。


人をからかうことが好きな天邪鬼だが、本心はほとんど表に出さない。


「おはよう、玖音さん」


「……おはよう」


短く返事をし、席へ座る。


凛はいつものように料理を運んだ。


「今日は大学へ行かれる日でしたよね」


「午前は大学」


「午後は研究室」


「夜はレコーディング」


玖音は淡々と答える。


「忙しそうですね」


「慣れてる」


それだけ言って味噌汁へ口をつけた。


(まただ……しっかり覚えてくれている)


予定まで全部。


来てまだ九日しか経っていないのに。


そのことが少しだけ気になった。


***


昼。


大学で講義と研究を終えた玖音は、そのまま研究室に残っていた。


白衣姿のままデータをまとめ、論文を確認する。


時計を見る。


昼食を食べる時間もない。


「まあ、あとでいいか」


そう呟いたとき、スマートフォンが震えた。


『本日はお昼を召し上がれないと伺いましたので、お持ち帰りいただけるよう軽食をご用意しております。お時間のあるときに召し上がってください。 凛』


「……は?」


思わず声が漏れる。


研究室の机を見ると、出掛ける前に渡された保冷バッグを思い出した。


開けると、中には野菜たっぷりのサンドイッチと温野菜、ゆで卵、フルーツ。


さらに、小さな手紙が添えられていた。


『長時間の研究、お疲れさまです。少しでも集中が続きますように』


玖音はしばらく動かなかった。


(……誰も頼んでない)


そう思うのに。


自然とサンドイッチへ手が伸びる。


「……うま」


パンはしっとりしていて食べやすい。


味付けも薄すぎず濃すぎず。


眠くならないよう油も砂糖も控えめだった。


(研究する日だからか)


一口ごとに気付く。


全部、自分に合わせて作られている。


(……ここまで考えてくれるのか)


胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。


***


夕方。


帰宅した玖音は、リビングで資料を読み始めた。


眉間にしわを寄せ、難しい論文へ目を通している。


その前へ、凛がお茶を置いた。


「お疲れさまです」


「……」


玖音は小さく頷くだけだった。


凛は気にした様子もなく微笑む。


「研究はいかがでしたか?」


「まあ、それなり」


「そうですか」


凛はそれ以上は何も聞かず、静かに一礼して少し離れた場所で片づけを始めた。


無理に会話を続けようとはしない。


その静かな時間が、玖音には心地よかった。


(……楽だ)


今までの世話係なら、


『大学って難しいんですか?』


『医学部ってすごいですね!』


そんな言葉が次々に飛んできた。


けれど凛は違う。


必要以上に踏み込まない。


それでいて、必要なことだけは自然と気づいてくれる。


その距離感が、不思議と心地よかった。


***


夜。


レコーディングから戻ると、凛はまだ起きていた。


「お帰りなさいませ」


「……ただいま」


自然と返事が口をついて出る。


凛は小さく微笑んだ。


「今日は大学もレコーディングもございましたので、お疲れかと思いまして」


温かいスープを差し出す。


「夜遅くは胃腸にも負担がかかりますので、消化の良いものをご用意しました」


玖音は黙って受け取る。


一口飲む。


優しい味が身体へ染み渡った。


思わず口が開く。


「……悪くない」


凛は嬉しそうに笑った。


「お口に合って安心しました」


(いや、美味しいだろ、これ)


自分でそう思ったことに、玖音は小さく眉をひそめる。


(なんで素直に言えないんだ、俺)


芸能人だから近づいてくるわけでもない。


医学部だから特別視するわけでもない。


ただ、一人の人間として接してくれる。


それが、こんなにも居心地がいいなんて知らなかった。


「玖音さん」


「なに?」


「今日も本当にお疲れさまでした」


「ゆっくりお休みください」


その一言だけだった。


「頑張ってください」でもない。


「応援してます」でもない。


ただ、


「お疲れさまでした」


その言葉が、不思議なくらい胸へ残った。


***


自室。


ベッドへ腰掛けた玖音は、今日一日の出来事を思い返していた。


(……困る)


データでは説明できない。


理論にも当てはまらない。


医学を学び、人の身体や脳を研究している。


けれど――


(この感覚だけは、説明できない)


凛といると、不思議と肩の力が抜ける。


「……ほんと、変なやつ」


そう呟くと、小さく笑みがこぼれた。


誰にも見せない、ほんの少しだけ柔らかな笑顔。


黒羽家へ来て九日目。


最後まで心を閉ざしていた青年は、まだ自分の気持ちを認めることはできない。


それでも知らないうちに――


気づけば、その青い瞳は凛の姿を探すようになっていた。


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